屈辱の敗北と人質としての歳月
1637年1月、朝鮮王朝は未曾有の危機に直面した。圧倒的な武力を誇る清の大軍の前に、第16代国王である仁祖(インジョ)は無条件降伏を受け入れたのである。単なる敗北ではない。国王自らが地に額をこすりつけるという、屈辱的な降伏儀式を強要されたのだ。この敗戦の代償として、仁祖の3人の息子たちは人質として清へ連行された。
次期国王である長男の昭顕世子(ソヒョンセジャ)も例外ではなく、異国の地で8年という長い抑留生活を余儀なくされた。しかし彼は清の進んだ文化を吸収し、次代の指導者としての見識を深めていた。そして1645年2月、過酷な日々を耐え抜いた世子はついに帰還を果たす。だが、その喜びは一瞬にして消え去る。帰国からわずか2カ月後、世子は突然この世を去った。あまりにも唐突な死であった。
実録が語る凄惨な遺体の状況
若き王位継承者の急死は宮廷に衝撃を与え、多くの人々に疑念を抱かせた。国家の正史である「朝鮮王朝実録」には、1645年6月27日の記録として、世子の最期の様子が詳細に書き残されている。そこには背筋が凍るような描写が並んでいた。
記録によれば、世子は帰国後すぐに体調を崩したという。異常だったのは遺体の状態である。全身の皮膚はどす黒く変色し、目や耳、鼻や口など、顔の7つの穴すべてから鮮血が流れていた。この凄惨な症状は通常の病死では到底説明がつかない。実録の記述者も「まるで劇薬を飲まされて命を落とした者のようであった」と率直に記している。周囲が毒殺を疑うのも当然の理であった。
宮廷の暗闘と暗躍する医官
疑惑の目はひとりの男に向けられた。国王の専属医官である李馨益(イ・ヒョンイク)である。その背後には、仁祖が最も寵愛していた側室、趙氏(チョシ)の影が見え隠れしていた。彼女は己の欲望のためなら悪事も辞さないという宮廷内でも恐れられる野心家であった。
李馨益はもともと、趙氏の実家に出入りする町医者だった。だが、彼の特技である鍼治療の腕前に目をつけた趙氏が、裏工作によって宮廷の医官へと引き上げたのである。李馨益はやがて仁祖の信頼も得て、王に直接鍼を打つまでに出世した。そして、体調を崩した世子の治療を任されたのも彼だった。彼が世子に鍼を打った直後、容態は急変したのである。
「李馨益が毒を塗った鍼で世子を暗殺した」
状況証拠はこの推測を強く裏付けていた。
捜査の不可解な打ち切り
事態を重く見た監察機関は直ちに真相究明に乗り出し、容疑者である李馨益への鞠問を国王に求めた。鞠問とは、重罪の疑いがある者を厳しく取り調べることである。ところが、ここで信じられない事態が起きる。最高権力者である仁祖が、この取り調べを強硬に拒否したのだ。息子の不審死にもかかわらず、真相究明に極めて消極的だった。
さらに異常な事実がある。当時の法制では、王族が亡くなった場合、担当医官は問答無用で処罰の対象となった。命を救えなかった責任を問われるのが常識である。しかし、驚くべきことに李馨益は一切の罪に問われなかった。仁祖が自らの権限で、不自然なまでに彼を庇い立てしたのである。
激しい嫉妬と恐怖
なぜ、国王は一介の医官をそこまで守る必要があったのか。理由はただ一つ、暗殺の首謀者が仁祖自身だった可能性が高いからだ。側室の趙氏は、以前から世子を憎悪していた。彼女は仁祖との間に産んだ自分の息子を次期国王にしたいと願っており、世子はその最大の障壁だった。実行犯には自身の手駒である医官を使えばよい。彼女には明確な動機があった。
では、実の親である仁祖の動機は何か。儒教社会において親が子を殺害するなど言語道断である。しかし、仁祖の精神状態はすでに正常ではなかった。清と良好な関係を築き、新しい思想を得て帰国した優秀な世子に対し、仁祖は激しい嫉妬と恐怖を抱いていたのである。「いつかこの息子に王座を奪われる」
その疑心暗鬼が彼の心を支配し、権力を失う恐怖から完全に平常心を失っていた。
歴史の闇に葬られた真実
すべての状況を総合すると、ひとつの凄惨な構図が浮かび上がる。王位への執着から精神の均衡を崩した仁祖と、我が子を王にしたいと願う狡猾な趙氏。2人の利害が暗闇の中で一致し、手先である李馨益に毒鍼を打たせたという結末である。
国を背負って異国で苦労を重ねた王位継承者は、政敵ではなく、最も信頼すべき実の父親によって命を絶たれた可能性が極めて高い。果たして、権力という魔物が血の通った愛情を奪い取った悲劇だったのだろうか。
文・写真=康 熙奉(カン ヒボン)


