英祖(ヨンジョ)はどんな国王だったのか【史実】『トンイ』の息子が思悼世子餓死事件を起こした理由

歴史重要人物
写真=SBS『ヘチ』公式サイトより
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朝鮮王朝の第21代王・英祖(ヨンジョ)は、韓国時代劇において欠かすことのできない重要な存在である。たとえば、日本でも絶大な人気を誇るドラマ『トンイ』では、ヒロインの最愛の息子として描かれた。多くの時代劇では威厳ある晩年の姿がクローズアップされがちだが、ドラマ『ヘチ 王座への道』では若き日の彼にスポットが当たり、俳優チョン・イルが若々しく颯爽とした姿を見事に演じきって話題を呼んだ。

史実における英祖は、1694年に生を受けた。父親は第19代王・粛宗(スクチョン)、そして母親は側室の淑嬪・崔氏(スクビン・チェシ)である。この母親こそが、ドラマ『トンイ』の主人公の歴史上のモデルとなった女性にほかならない。身分の低い出身から王の母へと至った彼女の血を受け継いだことは、英祖の生涯に大きな影響を与えている。

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 血で血を洗う党争と、英祖の即位

1720年、父である粛宗が崩御する。その後を継いで王位に就いたのは、第20代王・景宗(キョンジョン)であった。彼は、朝鮮王朝三大悪女の一人に数えられる張禧嬪(チャン・ヒビン)と粛宗との間に生まれた人物である。景宗には名君となるべき確かな素質が備わっていたものの、生まれつき身体が病弱であったことが、彼自身の、そして朝鮮王朝の運命を大きく狂わせることとなる。

景宗の治世、朝廷では政権を巡る派閥争いが極限まで激化していた。

【キーワード解説:二大派閥の争い】

  • 老論派(ノロンパ):当時の朝廷における最大派閥の一つ。保守的な思想を持ち、延礽君(ヨニングン/後の英祖)を強力に支持した。
  • 少論派(ソロンパ):老論派と対立するもう一つの巨大派閥。正統な王位継承者である景宗を支持し、老論派の排斥を目論んだ。

両派閥は、相手を失脚させるためならばいかなる手段も辞さなかった。謀略が謀略を呼び、何人もの優秀な官僚が処罰され、国政は果てしない混乱に陥っていた。一時的に政権を掌握したのは景宗を擁する少論派であり、敗れた老論派は朝廷から無情にも追放されてしまった。

しかし、少論派の天下は長くは続かなかった。病弱であった景宗が、在位わずか4年2カ月という短さでこの世を去ってしまったからである。本来であれば景宗の子供が王位を継ぐのが筋であるが、彼には後継ぎとなる子供が1人もいなかった。そのため、異母弟である延礽君が第21代王・英祖として即位することとなったのである。

この権力交代により、一度は壊滅状態に陥った老論派が劇的な復活を遂げた。派閥闘争とは大義名分ばかりであり、最終的に「自分が支持する者が王になれるかどうか」で一族の盛衰が決まるという非情な世界だったのである。

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 民を愛した王の輝かしい功績

熾烈な権力闘争の果てに王座を掴んだ英祖であったが、彼は復讐の連鎖を望まなかった。政敵である少論派への弾劾や粛清を最小限に抑え込んだのである。「このような血塗られた争いを繰り返せば、再び深い怨讐を生むだけである」と悟った彼は、国家の安定のために画期的な政策を打ち出す。

【キーワード解説:和合の政策】

  • 蕩平策(タンピョンチェク):英祖が断行した人事政策。派閥の所属に関係なく、各派閥から能力のある有能な人材を公平に登用する仕組み。

この蕩平策により、長年激しく続いていた凄惨な党争はようやく鎮静化へと向かったのである。政権を安定させた英祖は、その後も国防の強化、苛酷な刑罰の禁止、民衆への減税、さらには庶民の官吏登用など、矢継ぎ早に善政を敷き、数多くの成果を上げていった。

朝鮮王朝では身分制度が極めて厳格であったが、その中で少しでも弱者の人権に配慮した温情ある政策が実行されるようになったのは、間違いなく英祖の偉大な功績である。彼ほど博愛主義に満ちた君主は、それまでの歴史には存在しなかった。

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朝鮮王朝最大の悲劇「米びつ事件」

政治家として非の打ち所のない英祖であったが、家庭内においては取り返しのつかない悲劇を引き起こしてしまう。

英祖の長男である孝章(ヒョジャン)はわずか9歳で病死。その後、1735年に次男の荘献(チャンホン)が誕生した。荘献は幼いころから儒教の教典を暗唱し、たびたび大人たちを驚かせるほどの神童であった。

誰もが彼を「将来の名君」と信じて疑わなかったが、彼が10歳のときに一部の政策を批判したことで、老論派から強く警戒されるようになる。英祖は聡明な息子を頼もしく思い、14歳ごろから国政の一部を任せたが、これが悲劇の始まりであった。荘献と老論派の相性は最悪であり、老論派はことあるごとに荘献の小さな過ちや素行の悪さを誇張して英祖の耳に入れ、足を引っ張り始めた。

英祖は噂を聞くたびに荘献を呼びつけては厳しく問いただし、叱責を繰り返した。プレッシャーに押しつぶされた荘献は、次第に精神のバランスを崩し、親の言うことを聞かなくなっていく。

親子間の確執が深まる中、荘献を追い詰める陰謀はさらに加速した。驚くべきことに、彼を陥れようとした首謀者は以下の身内たちであった。

  • 洪麟漢(ホン・イナン):荘献の妻である恵嬪・洪氏の叔父。
  • 貞純(チョンスン)王后:英祖の若き継妃(新しい正室)。
  • 和緩(ファワン)翁主:荘献の実の妹。

いくら才能豊かな荘献であっても、最も信頼すべき身内から罠にかけられてはひとたまりもない。だが、彼自身にも大きな非があった。絶望した荘献は妓生(キセン)と放蕩を繰り返しただけでなく、側室を殺害したり、罪のない家臣に暴行を働いたりするなど、狂気に満ちた行動に走ったのである。もはや神童と呼ばれた面影はどこにもなかった。

ついに老論派にそそのかされた一人の官吏が、「世子(王位継承者)が謀叛を企てております」と虚偽の訴えを起こした。これに激怒した英祖は、実の息子に対して自決を命じるに至った。

しかし荘献は「命だけはお助けください」と泣いて許しを請い、決して自刃しようとはしなかった。見るに見かねた英祖は、彼を頑丈な米びつの中に閉じ込めるという異常な処罰を下した。

水も食料も一切与えられないまま、荘献は閉じ込められてから8日後に無惨な死を遂げたのである。事件後、英祖は息子の死を深く嘆き悲しんだ。亡き世子を追悼する父親としての情愛は時が経つにつれて高まり、英祖は息子に対し、死を深く悼むという意味を込めた「思悼世子(サドセジャ)」という尊号を贈って涙を流した。

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 次代に託された夢と驚異の長寿

その後、英祖は亡き荘献の忘れ形見である孫を、立派な王に育て上げることに全精力を注いだ。厳しい英才教育の末、英祖は1776年3月5日に82歳でこの世を去った。彼の後を継いだのが、荘献の息子である正祖(チョンジョ)である。本名をイ・サンといい、ドラマ『イ・サン』や『赤い袖先』の主人公としてあまりにも有名な彼は、祖父の期待通り、統治者として随一の実績を成し遂げる名君となった。

それにしても、英祖の長寿ぶりは際立っている。朝鮮王朝歴代27人の王の中で、在位期間が最も短かったのは第12代王・仁宗(インジョン)のわずか8カ月である。それに対し、最も長かったのが実に52年間も王位に君臨し続けた英祖であった。平均寿命が短い当時において、80歳を過ぎても王座に就いていたのは彼ただ一人である。

なぜ、過酷な権力闘争と深い家族の悲劇を経験しながらも、これほど長く生き抜くことができたのか。何よりも、身分の低い出身ながらも逞しく生き抜き、彼を丈夫な身体に産み落としてくれた母親、淑嬪・崔氏の強靭な血脈に大いに感謝すべきであろう。英祖の生涯は、母から受け継いだ生命力とともに、朝鮮王朝の歴史に深く、そして複雑な足跡を残したのである。

写真=SBS『ヘチ』公式サイトより

文=康 大地(コウ ダイチ)

この記事を書いた人
康大地

2008年から韓流専門誌で執筆と編集を長く担当。特に『愛してるっ‼韓国ドラマ』誌において、韓国ドラマのレビュー、韓流イベントの取材、歴史人物解説記事の執筆などに取り組んできました。現在は韓流サイト『ロコレ』で企画・取材・執筆・編集を精力的に行っています。韓国ドラマ以外の趣味は居酒屋めぐり、温泉探訪、妖怪研究などです。

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