朝鮮王朝の歴史には、クーデターによって王位を追放された「廃主」が2人存在する。10代王・燕山君(ヨンサングン)と、15代王・光海君(クァンヘグン)である。永らくこの2人は、並び称される「稀代の暴君」として歴史に名を刻まれてきた。しかし近年、光海君の治世を再評価し、その業績を見直そうとする動きが活発化している。果たして、光海君は血も涙もない暴君だったのか、それとも時代を見据えた名君だったのか。
韓国の時代劇においても、光海君は非常に人気のある題材である。たとえばドラマ『華政(ファジョン)』において、俳優チャ・スンウォンが演じた光海君は、苦悩を抱えながらも国を思う人間味あふれる国王として好意的に描かれていた。実際のところ、歴史の波に翻弄された光海君の実像はどのようなものであったのだろうか。
混迷を極めた後継者争いと戦乱
朝鮮王朝13代王・明宗(ミョンジョン)には跡継ぎがいなかったため、自身の跡継ぎを11代王・中宗(チュンジョン)の孫の中から選出することとなった。こうして王座に就いたのが、14代王・宣祖(ソンジョ)である。初の傍系出身の王となった宣祖は、自身の出自に対する強いコンプレックスから、「自分の跡継ぎには、必ず正室から生まれた嫡男を指名したい」という強い執着を持っていた。しかし、最初の正室である懿仁(ウィイン)王后は、生涯子供を産むことがなかった。
王の後継者がいつまでも不在であることは国家の危機を意味する。群臣からの圧力もあり、宣祖は側室から生まれた息子の中から跡継ぎを選ぶ必要に迫られた。その有力候補となったのが、長男の臨海君と、二男の光海君である。
【激動の時代を彩る歴史人物】
- 14代王・宣祖(ソンジョ):光海君の父。自身が傍系出身であることに強いコンプレックスを抱いており、なんとしても正室から生まれた「嫡男」に王位を継がせたいと執念を燃やした。
- 臨海君(イメグン):光海君の実兄。長男でありながら性格が非常に粗暴で王の器ではないとされ、後継者から外された。後に光海君の政権下で処刑される。
- 永昌大君(ヨンチャンデグン):宣祖と継室・仁穆王后の間に、宣祖の晩年になってようやく生まれた待望の嫡男。光海君の王位を脅かす存在となり、わずか8歳で悲惨な死を遂げる。
- 仁穆(インモク)王后:宣祖の2番目の正室であり、光海君の義理の母。息子である永昌大君を殺され、自身も長きにわたり幽閉されたことで、光海君に対して骨髄に徹する恨みを抱く。
- 16代王・仁祖(インジョ)/綾陽君(ヌンヤングン):宣祖の孫であり、光海君の甥。クーデター(仁祖反正)を起こして光海君を廃位に追い込み、自ら王位に就いた。
本来、朝鮮王朝の厳格な原則に従えば「長男が後を継ぐ」のが当然であり、臨海君が世子(王位継承者)になるはずであった。しかし、臨海君は性格が極めて粗暴であり、国を統治する王の資質を著しく欠いていたのである。
後継者選びが宙に浮いたまま迎えた1592年、豊臣秀吉による「壬辰倭乱(文禄・慶長の役)」が勃発する。破竹の勢いで進軍する日本軍の前に朝鮮軍は敗北を重ね、王である宣祖はあろうことか都である漢陽(現在のソウル)を捨てて、北方の国境地帯へ逃亡してしまった。さらに、長男の臨海君は加藤清正の軍勢に捕らえられ、捕虜になるという失態を演じる。
一方、二男の光海君は、急遽世子に指名されると、父とは別れて戦火の残る地方へと赴き、臨時の朝廷である「分朝」を組織した。彼は各地で義兵を募り、兵士たちの士気を高め、国難を乗り切るための多大な功績を残したのである。この働きを見た宣祖は、正式に光海君を後継者に指名しようとした。しかし、ここで待ったをかけたのが、宗主国である中国の明であった。当時の朝鮮王朝は、王や世子を決める際に明の皇帝から承認(冊封)を受けなければならなかった。明は「長男が健在であるのに、二男が跡継ぎになるのは儒教の長幼の序に反する」と主張し、光海君の世子冊封を拒絶したのである。
血塗られた歴史と「暴君」への道
1598年、豊臣軍の撤退によって7年に及ぶ戦乱は幕を下ろしたが、光海君の世子承認は依然として明から得られていなかった。そうした不安定な状況のなか、正室の懿仁王后が亡くなり、宣祖は若い仁穆王后を二番目の正室として迎え入れた。
そして1606年、歴史を揺るがす事態が起きる。仁穆王后が、宣祖にとって念願であった嫡男・永昌大君を出産したのである。宣祖はついに生まれた待望の嫡男を溺愛し、すぐにでも光海君を廃して永昌大君を王位に就けたいと画策し始めた。しかし、永昌大君がまだ幼少であった1608年、宣祖はその後継ぎ問題を解決できぬまま突然この世を去ってしまう。
王が後継者を正式に指名せずに亡くなった場合、王妃(大妃)が次の王を指名するのが通例であった。しかし、仁穆王后もさすがにまだ2歳の永昌大君を王に据えることは現実的ではないと判断せざるを得なかった。こうして、紆余曲折の末に光海君が15代王として即位することとなったのである。
しかし、王位に就いた後も光海君の足元は揺らいでいた。明はいまだに光海君を正式な王として認めようとせず、さらには王になれなかった長男・臨海君が光海君への批判と不満を公然と繰り返していた。
【時代背景を読み解くキーワード解説】
- 大北(テブク)派:光海君の即位を強力に支持し、政権の中枢を担った政治派閥。王権を強化するため、反対勢力や王族への苛烈な粛清を主導した。
- 大同法(テドンボプ):光海君が京畿道で試験的に導入した画期的な税制改革。各地方の特産物を納めさせる従来の過酷な貢物制度を廃止し、米で統一して納税させるようにしたことで、農民の負担を激減させた。
- 中立外交:建国以来「事大主義(明に忠誠を誓うこと)」を国是としてきた朝鮮王朝において、光海君がとった現実的な外交路線。衰退する明からの援軍要請に応じつつも、密かに後金にも敵意がないことを伝え、朝鮮半島が戦火に巻き込まれるのを防いだ。
光海君を支持して政権を握っていた「大北派」の重臣たちは、王権の脅威を排除するため、1609年に臨海君を謀殺した。
次なる標的は、嫡男である永昌大君であった。
1613年、大北派は仁穆王后の父を中心とした一族が王位転覆を企てているという濡れ衣を着せ、これを大義名分として永昌大君を江華島(カンファド)へと島流しにした。さらに仁穆王后の身分を剥奪し、西宮(現在の徳寿宮)に幽閉してしまう。大北派の残忍な陰謀はこれに留まらず、翌1614年、オンドル(床暖房)の火を極限まで焚き込ませるという凄惨な方法で、流刑地の永昌大君を蒸し焼きにして殺害したのである。永昌大君は、まだわずか8歳の無垢な子供であった。
光海君は、実兄と異母弟を殺害しただけでなく、儒教において絶対的な敬意を払うべき義理の母・仁穆王后を幽閉し処罰した。「廃母殺弟」と呼ばれるこの行為は、儒教の倫理観が根付く当時の社会において、天地がひっくり返るほどの悪行とみなされた。これが、後世において光海君が「暴君」と断罪される最大の根拠なのである。
しかし一方で、光海君は政治家としては極めて有能であった。戦乱で荒廃した国土の復興に努め、「大同法」を施行して特産物による煩雑で過酷な徴税を米に統一し、農民の負担を大幅に軽減させた。また、東アジア情勢が激変し、明が衰退して女真族の後金が台頭するなか、彼は明への義理を果たしつつも後金を刺激しないという、極めて高度な「中立外交」を展開した。当時の名分論に凝り固まった儒臣たちからは批判されたが、国家を戦火から守ったその冷徹な現実主義は、まぎれもなく「名君」のそれであった。
勃発したクーデター
光海君の実利的な政治運営は国益にかなっていたが、親明派の保守的な官僚たちの反発は限界に達していた。そして1623年、首都で大規模なクーデターが勃発する。「仁祖反正」である。
首謀者は、宣祖の孫の一人である綾陽君であった。彼は自身の弟である綾昌君(ヌンチャングン)が謀反の罪を着せられて処刑されたことで、光海君に対して海よりも深い憎しみを抱いていた。
しかし、綾陽君は個人的な復讐心だけで兵を挙げれば、それは単なる逆賊の反乱にしかならないことを熟知していた。そこで彼がクーデターの最大の大義名分として掲げたのが、「明への恩を忘れた背信行為」と、幽閉されている「仁穆王后の救済」であった。
入念に練られた綾陽君のクーデターは成功を収める。油断していた光海君は捕らえられ、綾陽君は16代王・仁祖として即位した。けれど、ここで新たな問題が浮上する。愛する幼い息子を惨殺され、自身も10年もの長きにわたって幽閉され地獄の日々を送っていた仁穆王后が、光海君の即時斬首を強硬に要求し始めたのである。
光海君の最期
いくら廃位となったとはいえ、かつての国王を処刑することは、新たな王権の正当性に傷をつけ、後世に悪評を残す危険があった。仁祖はなんとかして仁穆王后の激しい怒りを鎮めようと尽力したが、彼女の怨念は想像を絶するものだった。
「あの恥さらしは、私にとって同じ天の下で生きていくことなど到底できない、不倶戴天の仇であります。私自身の手で、直接ヤツの首を斬り落としたい。私が今日まで自害もせず辛抱してきたのは、ひとえにヤツの血祭りを上げる『このとき』を待っていたからにほかなりません」
身の毛もよだつような呪詛の言葉を並べられても、仁祖は国家の体面を守るため、彼女の願い通りに処刑を決行することはできなかった。それでも仁穆王后の執念は収まらない。
「そなたが私のために反乱を起こし即位したのであれば、私のために復讐を果たしてくれるのが真の孝行というものではないでしょうか。ヤツが自ら人間の道理を破ったのですから、私はかならずこの怨みを晴らさなければ気が済まないのです」
強硬に光海君の処刑を叫び続ける大妃に対し、仁祖は必死の説得を続けた。最終的に、仁祖は仁穆王后の殺意をなだめすかし、光海君の命だけは助命したうえで、江華島(カンファド)への流罪とした。しかし、光海君の苦難はそこで終わらなかった。その後、謀反の疑いがかけられるたびに流刑地を転々とさせられ、最後には朝鮮半島から最も遠く離れた絶海の孤島、済州島(チェジュド)へと追放されたのである。
王の座も、権力も、家族も、すべてを奪われた光海君。しかし、彼はその過酷な配流生活のなかでも決して自暴自棄にならず、ひたすらに耐え忍んだ。彼は済州島で没するまで、実に66歳という当時としては長寿を全うしたのである。
歴史の勝者から「暴君」のレッテルを貼られ、孤独な孤島で海風に吹かれながら、彼はかつての栄華と自らが流した血の代償について、いったい何を思いながら死んでいったのだろうか。その真意は、今も歴史の波間に沈んだままである。
写真=MBC
文=康 大地(こう だいち)


