朝鮮王朝と後金(後の清国)の戦いを激しく描いた時代劇『恋人~あの日聞いた花の咲く音~』。このドラマの中で重要な存在としてよく出ていたのが昭顕世子(ソヒョンセジャ)であった。彼を襲った悲劇を振り返ってみよう。
まずは、17世紀前半の東アジアの勢力図について解説する。当時、長らく繁栄した明帝国は衰退し、強大な軍事力を誇る「後金」が台頭する。彼らは国号を「清」と改め、大陸の覇権を握ろうとしていた。
しかし、朝鮮王朝は旧態依然とした世界観に縛られていた。明への絶対的な忠誠心である。儒教思想に基づき、清国を「文化を持たぬ辺境の蛮族」と見下す態度を変えなかった。時代の変化を読み取れなかったのである。この非現実的な外交姿勢が、やがて国家に未曾有の災厄をもたらすこととなる。
屈辱の降伏
1636年12月、事態は急転する。朝鮮王朝の無礼な対応に腹を立てた清は、大軍を率いて半島へ攻め込んできた。圧倒的な軍事力の前に朝鮮王朝軍は為す術がない。国王の仁祖(インジョ)は逃亡を余儀なくされ、ついに清の皇帝に降伏を申し出た。その儀式は屈辱的なものであった。冷たい地面に伏し、仁祖は清の皇帝の御前で土下座をして謝罪したのである。さらに臣下の礼まで強要された。朝鮮の歴史上、これほどの屈辱を受けた国王は他にいなかった。仁祖のプライドはひどく傷つけられた。
「なぜ、このような目に遭うのか」
鬱屈した思いを抱え、かつて見下していた相手への激しい憎悪を増加させていく。一方、戦火で困窮した民衆は「情けない王のせいで我々の生活は苦しくなるばかりだ」と仁祖を激しく罵った。
異国の人質となった兄弟
敗戦の代償は重かった。清は莫大な賠償金と大量の人質を奪い去ったのである。
その中には、王室の血族である長男の昭顕世子、二男の鳳林(ポンニム)大君、三男の麟坪(インピョン)大君の姿もあった。幼い三男は後に返されたが、長男と次男は清に囚われたままだった。
一応は王子として遇されたものの、外国での人質生活は兄弟の心にまったく異なる影響を与えた。昭顕世子は柔軟な思考の持ち主であった。
清に入ってくる西洋の技術や文化に心を震わせたのである。積極的に西洋人と交流を持ち、そのすばらしさに心酔していった。
これに対し、次男の鳳林大君は違った。敗戦国の王子と馬鹿にする周囲の冷たい視線を感じていた彼は、清への恨みをひたすら強めるばかりだった。彼の関心は、世子である兄を守るため、清の中で常に目を光らせることにのみ向けられた。
膨らむ不信感
遠く離れた2人の生活ぶりは、逐一仁祖に報告されていた。王の目には長男の行動がひどく不気味に映る。憎き清と友好を深める昭顕世子に対し、仁祖は激しい怒りを募らせた。
さらに宮廷内では不穏な噂が飛ぶ。
「清は徹底した反清思想を持つ仁祖を疎ましく思っている。いずれ昭顕世子が帰国すれば、王の座を追われるだろう」
この噂は、権力に固執する仁祖を激しく揺さぶった。我が子が王座を奪う政敵へと変わったのである。
世子への疑心暗鬼は深まるばかりだった。だが、当の昭顕世子はそのような父の深い不信感を知らない。純粋に、早く帰国して清や西洋文化のすばらしさを父に報告したいと胸を弾ませていたのである。
あまりに残酷な再会
1645年、ついに解放の日が訪れた。長きに及ぶ人質生活を終え、昭顕世子はようやく帰国を果たした。
すぐに父を訪ねたが、感動の再会は起こらなかった。仁祖はそっけない態度を見せるばかりか、世子が西洋文化の魅力を語り始めると露骨に嫌な顔を浮かべた。
世子が持ち帰った外国の道具や書籍を見せた瞬間、仁祖の怒りが爆発する。手元にあった硯(すずり)をつかむと、息子の顔へ力任せに投げつけた。
「世子という立場でありながら、憎き清の言いなりになるとは……。今すぐこの場から立ち去れ」
怒鳴り散らす父の剣幕に驚き、世子は悲しみに暮れながら引き下がった。
この事件の2カ月後、事態は最悪の結末を迎える。昭顕世子が原因不明の死を遂げたのだ。遺体は黒ずんで、ひどく腫れ上がっていた。
まるで毒殺されたかのような異常な状態である。
さらに不可解な出来事が続く。王族が命を落とせば、主治医は当然処分を受ける。だが、仁祖は彼を一切処罰しなかったのである。
この露骨な隠蔽工作により、ある恐ろしい疑惑が歴史に刻まれることとなった。仁祖自身が実の息子を毒殺したのではないか。権力への妄執と憎悪に囚われた孤独な王は、自らの手で未来への希望を摘み取ってしまったのか。
この疑惑は、朝鮮王朝の闇として後世まで長く語り継がれている。
画像=MBC
文=康 熙奉(カン ヒボン)





