江戸時代の朝鮮通信使
私はゆっくりと狭い坂道をのぼって福禅寺に向かった。この寺と朝鮮通信使の関係に思いを馳せながら……。
朝鮮半島に未曾有の被害をもたらした「文禄・慶長の役」は、1598年に秀吉の死をもって終結するが、関ヶ原の合戦に勝利して江戸に幕府を開いた徳川家康は、朝鮮王朝との関係改善を願った。
国内を安定させるためには、隣国と良好な関係を早く築くことが必須と考えていたし、外交使節を迎え入れることで徳川幕府の正統性を示そうとしたのである。
率先して和議の仲介役となったのが対馬藩で、粘り強く国交再開を朝鮮王朝に働きかけた。この藩は朝鮮半島との交易がなければ存続できなかったからである。
当初は朝鮮王朝の憎悪も激しかったが、誠実さをもって捕虜の送還に尽力したことが次第に評価されるようになった。また、家康の軍勢は朝鮮出兵の際に出陣地だった九州の名護屋までは行ったが、そこから海を渡ることはなかった。秀吉からの出陣命令が出なかったことが、後の和平のときに追い風となった。
朝鮮王朝も日本との和議に異存はなかった。国土を復興させるためには、日本と平和的な関係を築くほうが得策だったのだ。
1607年に第1回目の使節が朝鮮半島から来日し、両国の間で再び交流が始まった。最初の3回は戦後処理を主な目的としており、正式には「回答兼刷還使」と呼ばれた。徳川幕府からの来日要請に対する回礼という意味で「回答」を使っており、同時に、日本に連行された捕虜を連れて帰る「刷還使」を兼任していたのである。正式に朝鮮通信使という名称になるのは第4回目からである。
その第4回目は泰平祝賀、第5回目は将軍家の嫡男誕生祝賀が来日目的だったが、第6回目以降はすべて、将軍の襲職祝賀を名目として来日している。つまり、朝鮮通信使が定例化されてからは、「御代替祝儀の信使」であったわけだ。
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