日本のコリアをゆく(広島・鞆の浦編1)

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朝鮮通信使を饗応した各藩

朝鮮通信使の構成は、当時としては破格だった。

正使、副使、従事官を高位とする一行は400人から500人の規模を誇り、外交使節の他に儒者、作家、書家、画家、医者なども同行して文化交流に力を注いだ。

また、国書の交換が行なわれるのが通例でり、徳川幕府は国賓として最高の格式で朝鮮通信使を迎えた。

来日の際の経路を見てみよう。

漢陽(ハニャン/現在のソウル)を出発して陸路で釜山(プサン)に至った一行は、船で対馬、壱岐、瀬戸内海を経由して大坂に上陸する。そこでしばらく逗留したあと、淀川をさかのぼって京都に出て、陸路で江戸に向かった。復路もほぼ同じ経路をたどるが、この往復にはおよそ8カ月ほどの日数がかかった。

しかも、日本国内での接待と警護はすべて沿海・沿道の各藩が担当し、その饗応のために莫大な経費を必要とした。各藩は相当頭を悩ませたが、面目を保つために相応の出費もやむをえなかった。




たとえば、鞆の浦を抱える福山藩の場合を見てみよう。

当時の資料によると、朝鮮通信使が来る度に福山藩では鞆の浦で応対するために1000人規模の人員を動員したという。さらに、特に苦労したのが料理に使う食材の調達であり、一度に鶏400羽や雉80羽を用意しなければならず、藩内の各村に布告を出して懸命に集めた。

また、大量の魚も必要だったので、鞆の浦の漁師が一致団結して漁に出た。応対する側の苦労がしのばれる。

それでも、華やかで壮麗な使節団を迎える地元の人たちは大喜びだった。朝鮮通信使は各地で熱狂的に迎えられ、宿舎を訪ねて朝鮮王朝の知識人たちと談論風発をする人が非常に多かった。

たとえ言葉は通じなくても、筆談によって意思の疎通をはかることができた。そういう意味でも、両国の相互理解に果たした役割は非常に大きかったといえる。

(次回に続く)

(文=康 熙奉〔カン ヒボン〕)

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