朝鮮王朝の歴史において、最も長きにわたり王座に君臨した人物がいる。第21代国王の英祖(ヨンジョ)である。韓国時代劇でいえば、『ヘチ 王座への道』で俳優チョン・イルが若々しく英祖を演じていた。
史実の彼は各派閥を均衡させる政策を打ち出し、王朝の中興を成し遂げた名君として歴史に名を刻んだ。しかし、その華々しい治世の裏側には、生涯にわたって彼を苦しめた深い闇が存在していたのである。
【歴史人物紹介】
- 粛宗(スクチョン):第19代国王。強力な王権を誇った絶対君主である。しかし、彼の度重なる女性問題が、宮廷内の派閥争いを激化させる原因となった。1720年に崩御。
- 張禧嬪(チャン・ヒビン):粛宗の寵愛を受けた側室。絶世の美貌で知られる。一時は王妃の座に上り詰めたが、後に賜薬を受けて処刑された悲劇の女性である。
- 淑嬪・崔氏(スクピン・チェシ):粛宗の側室であり、英祖の生母。現代においては、ドラマ『トンイ』の主人公のモデルとして広く大衆に知られている。1718年に世を去った。
- 景宗(キョンジョン):第20代国王。粛宗と張禧嬪の間に生まれた。心身ともに病弱であり、在位わずか4年にしてこの世を去った。
出自という逃れられぬ影
英祖の生母である淑嬪・崔氏は、もともと宮中において水汲みなどの雑務をこなす最下層の身分であったと伝えられている。
厳格な身分制度が存在した当時の朝鮮王朝において、このような低い階級から国王の母になることは極めて異例であった。そのため、母の身分の低さは、英祖にとって幼い頃から逃れられない強烈なコンプレックスとなっていたのである。
1718年、母である淑嬪・崔氏が静かに息を引き取った。さらに1720年には、絶対的な権力者であった父の粛宗もこの世を去ってしまう。確固たる後ろ盾を失った宮廷において、次なる王位に就いたのは異母兄の景宗であった。
即位した景宗は、重大な問題を抱えていた。彼には跡継ぎとなる子供が存在しなかったのである。加えて、母である張禧嬪が悲惨な死を遂げたトラウマもあり、彼は極度に病弱であった。
このような情勢において、もし景宗が命を落とせばどうなるか。王位継承権は、唯一の弟である英祖へと自動的に転がり込むこととなる。若き英祖の胸の奥底に、王座への野望が静かに燃え上がっていたとしても不思議ではない。事実、景宗の治世はわずか4年で幕を閉じた。彼が急死を遂げたことで、英祖は念願の王冠を頭に戴いたのである。
渦巻く「毒殺」の疑惑
新王の誕生は平穏なものではなかった。王宮の奥深くで、恐ろしい風説が瞬く間に広まったのである。
「新王が権力のために実の兄を毒殺した」。この疑惑に対して、英祖は躍起になって身の潔白を主張した。しかし、一度ついた猜疑の目は、そう簡単に消え去るものではなかった。
【景宗暗殺疑惑の主な理由】
- 死の直前、英祖が健康に悪いとされる食べ物(ケジャンと生柿)を兄に強引に進上したこと。
- 主治医の猛反対を押し切り、英祖自らが薬の処方を強行したこと。
- 景宗を支持する派閥と、英祖を支持する派閥が血みどろの権力闘争を繰り広げていたこと。
毒殺の疑惑はやがて、大規模な武力反乱へと発展した。英祖の即位を認めない勢力が、ついに牙を剥いたのである。彼らが掲げた反乱の正当性は、英祖を精神の底まで打ちのめすものであった。反乱軍が突きつけた告発書には、「英祖は先代王・粛宗の血を引く実の子ではない」という驚愕の主張が記されていたのである。
なぜ、これほどまでに荒唐無稽な告発がなされたのか。そこには客観的な事実が存在した。
■ キーワード解説:観相学(顔相) 当時の朝鮮半島では、人の顔立ちから運命や本質を読み解く「観相学」が極めて重視されていた。これは単なる占いではなく、国家の政務や人事にも影響を及ぼす重要な学問として認識されていたのである。
孤独な戦い
英祖の顔立ちが、父であるはずの粛宗に微塵も似ていなかったのである。当時の最高権威である観相師たちを動員しても、二人の顔に共通点を見出すことは不可能であった。この事実が、反乱軍の主張に妙な説得力を与えてしまったのだ。
英祖は軍隊を動かし、この反乱を徹底的に鎮圧した。そして、告発書の内容を事実無根であると激しく非難したのである。しかし、武力で反乱を鎮めることはできても、人々の心に芽生えた疑念の種まで焼き尽くすことはできなかった。
英祖の長い治世は、常に孤独な戦いであった。最下層出身の母を持つという劣等感。そして、自身の血統に向けられた残酷な疑義。これら二つの重い十字架が、彼を生涯にわたって苛み続けたのである。
彼はそのコンプレックスを払拭するかのように、誰よりも学問に励み、完璧な君主であろうと努めた。しかし、心に開いた暗い穴が完全に埋まることは、最期の瞬間まで決してなかったのである。
画像=SBS
文=康 大地(こう だいち)




