日韓の二千年の歴史19/慶長の役

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李舜臣の復帰

豊臣軍はまず、朝鮮半島の南東地域にあたる慶尚道(キョンサンド)の沿岸に城を造った。そこを拠点として最大の穀倉地帯である全羅道(チョルラド)を手中に収めることを狙ったのだ。
1597年7月、豊臣水軍は元均(ウォンギュン)が率いていた朝鮮王朝水軍を慶尚道の巨済島(コジェド)で破った。その当時、名将・李舜臣(イ・スンシン)は嫉妬にかられた奸臣の策略によって獄につながれていた。代わって元均が水軍を統率したが、李舜臣とは能力が違いすぎて豊臣水軍に歯が立たなかった。
苦境に陥った水軍に再び李舜臣が戻ってきた。彼が指揮官になってからは逆に豊臣水軍が劣勢に追い込まれていった。
陸上では、全羅道の南原(ナモン)が激戦地になっていたが、全体として戦いは膠着状態に入っていた。




朝鮮王朝と明の連合軍は、豊臣軍の象徴ともいえる加藤清正を討つべく、彼が拠点にしていた蔚山(ウルサン)の城を攻めた。
1597年12月、朝鮮王朝と明の連合軍は蔚山城を包囲し、外部と城をつなぐ水道を遮断した。そのあおりで蔚山城にいた兵士たちは食糧と水を得られなくなり、餓死を覚悟しなければならなかった。それでも必死に耐えた。
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