あれほど帰郷を願ったが……
1632年、肥後の藩主だった加藤家は徳川幕府から改易させられた。家臣団をまとめきれなかった加藤忠広は何かと問題を起こしていたが、やはり豊臣恩顧の大名であったことが徳川幕府から嫌われた最も大きな理由だったかもしれない。肥後の藩主は加藤家から細川家に変わった。
新しい藩主は細川忠利だった。藩政も大いに変わり、余大男は「これで帰国できるのではないか」と望みを持った。
しかし、結果は逆だった。余大男は元藩主である清正の側近として警戒され、むしろ加藤家の時代より冷遇されるようになった。当然ながら、帰郷も許されなかった。
身を切られるような辛さの中で、余大男も帰国をあきらめざるをえなくなった。以後は、父母の安寧を祈って仏道に精進し、領地の人々の尊敬を受けた。そして、両親が亡くなったあとは、日々の祭祀を欠かさなかった。
1665年、余大男は79歳で世を去った。朝鮮半島から日本に連れてこられてから60余年が経っていた。
かつて余大男は父への手紙でこう書いている。
「もし泰平の世に私が一人で逃亡し、父母や友を捨て、見知らぬ土地で暮らしていたなら、私の親不孝の罪は極刑に当たるでしょう。けれど、伏してお願い申し上げます。やむをえない事情があったとお察しくださり、恩恵に背いたという非難を広めないでくださいませ」
韓国の学者の推定によると、文禄・慶長の役で日本に連れてこられた捕虜は5万人にのぼるという。和平が成立したあとに、多くの者は故郷に帰ることができたが、為政者に恵まれない人は帰国が許されず、異国で生涯を終わらざるをえなかった。余大男はその典型的な一人である。
余大男はどんなに故郷に帰りたかったことか。日本列島と朝鮮半島の間は、今なら船でも3時間(博多港と釜山港を結ぶ高速船)の距離だが、江戸時代の初期にはまるで地球の裏側に至るように遠かった。
(終わり)
文=康 熙奉(カン ヒボン)