1636年12月、朝鮮王朝が強大な清に攻められたときだった。貞明公主は漢江(ハンガン)の河口の近くの江華島(カンファド)に避難しようとした。用意した船に財産をすべて載せて、貞明公主はまさに陸地を離れようとしたのだが……。
避難してきた民衆を救出
清が都の漢陽(ハニャン)を攻めたとき、多くの民衆が我先に逃げだした。まさに、都は大混乱に陥ったのである。
貞明公主が江華島に避難しようとしたときも、かなりの数の民衆が船着場にやってきた。誰もが恐怖におののき、一刻も早く安全な場所まで逃げたいと必死だった。
それを見た貞明公主はお付きの者に命令した。
「荷物を全部下ろして、できるだけ多くの民を船に乗せなさい!」
即座にそう言われても、お付きの者たちは躊躇(ちゅうちょ)した。船に積んでいたのは、あまりに高価なものばかりだったからだ。
しかし、貞明公主に迷いはなかった。
彼女は毅然とした意志を示して、船から荷物を下ろさせ、できるだけ多くの人たちを船に乗せた。
命を救われた民衆たちは、口々に貞明公主を称賛した。
「さすがに名高い貞明公主様です。このようなお方の徳のおかげで、さぞかし子孫が繁栄することでしょう」
民衆たちの言葉に間違いはなかった。
貞明公主は夫の洪柱元(ホン・ジュウォン)との間に7男1女をもうけたが、息子たちは相応に出世し、さらに子孫の中から優秀な人物が次々に輩出した。
たとえば、名君と呼ばれた22代王・正祖(チョンジョ)を補佐して活躍した洪国栄(ホン・グギョン)がそうだ。
彼は韓国時代劇『イ・サン』にもよく登場した高官だが、貞明公主の子孫として歴史に名を残した人物であった。
貞明公主をさんざん冷遇した仁祖が世を去ったのは1649年である。
享年54歳だった。
王位を継いだのは二男の鳳林(ポンニム)で、彼が17代王の孝宗(ヒョジョン)として即位した。
以後、朝鮮王朝は孝宗、18代王・顕宗(ヒョンジョン)、19代王・粛宗(スクチョン)と王位が移っていくが、王族の長老女性として貞明公主は歴代王から丁重な待遇を受けた。仁祖の時代とはまったく逆になったのだ。
特に、貞明公主が絢爛(けんらん)たる生活を送れたのは、彼女が大変な地主であったからだ。
貞明公主は都に広大な屋敷を所有していたが、その他に慶尚道(キョンサンド)と全羅道(チョルラド)にとてつもない土地を所有していた。
たとえば、貞明公主が慶尚道に持っていた土地は、現在の土地の測り方に換算すると、5000万坪にのぼったという。
この広さを想像できるだろうか。
朝鮮王朝時代、都の漢陽(ハニャン)は城郭に囲まれた都市であった。その城郭の中がおよそ600万坪だったと推定されている。そうだとすれば、貞明公主が慶尚道に持っていた土地は、都の漢陽より8倍強も広かったことになる。
他にも、貞明公主は全羅道にいくつも島を所有していた。
なぜ、彼女はそこまで大地主になれたのか。
それはとりもなおさず、母親の仁穆王后が仁祖に働きかけた結果だった。クーデターを起こして王となった仁祖は、王位交代の大義名分を仁穆王后から与えられていた。それだけに、仁祖は仁穆王后のご機嫌を取る必要があったのだ。その立場を利用して、仁穆王后は娘のために広大な土地を譲り受けたのである。
518年間も続いた朝鮮王朝において、貞明公主ほど広い土地を所有した女性は、他にいなかったのではないか。
(第10回に続く)
文=康 熙奉(カン ヒボン)