歴史に生きた貞明公主「第8回・苦難」

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仁穆(インモク)王后が亡くなってから貞明公主(チョンミョンコンジュ)に急に冷たくなった16代王・仁祖(インジョ)。彼は貞明公主が呪詛(じゅそ)をしているという疑いを持ったが、周囲の説得によって貞明公主への処罰を取り止めている。しかし、仁祖の疑心は一向に晴れなかった。

写真=韓国MBC『華政』公式サイトより




二度目の疑心暗鬼

仁祖が、貞明公主の呪詛を最初に疑ったのは、仁穆王后が亡くなった1632年だった。それから7年後、再び仁祖は貞明公主に疑いの目を向けた。
そのきっかけは、前回同様に仁祖が原因不明の病に苦しんだことだった。体調の悪化とともに再び仁祖は疑心暗鬼となり、寝殿の近くに呪詛物(人骨や小動物の遺骸など)がないかを大々的に調べさせた。
すると、大量の呪詛物が発見された。
「やはり、そうであったか」
自分の勘が当たったことに自信を持ち、仁祖は貞明公主に従っている女官たちを厳しく尋問し始めた。
貞明公主が疑われたことに対して、今回もまた仁祖の功臣たちが反対を唱えた。
彼らは、1623年に仁祖が先王の光海君(クァンヘグン)を王宮から追い出したときの功労者たちである。




仁祖もその功績に感謝していたからこそ、功臣たちの意見に耳を傾けてきたのだが、今回の呪詛事件だけは彼も頑(かたくな)になり、貞明公主への処罰に言及した。
貞明公主を守る最後の砦が崔鳴吉(チェ・ミョンギル)であった。
彼は仁祖が最も信頼を置く高官の1人だった。
崔鳴吉は必死に仁祖を説得した。
「貞明公主は宣祖(ソンジョ)大王の直系の王女です。もし、貞明公主を処罰したら、反正(パンジョン/光海君を王宮から追放したクーデターを指す)の正統性はどうなってしまうのでしょうか。もともと、呪詛事件というものは、曖昧な要素が多く、真実を明らかにするのが難しいのです」
結局は、仁祖も崔鳴吉の言葉に同意せざるをえなかった。
貞明公主の母である仁穆王后によって、仁祖が起こしたクーデターに大義名分を持つことができたのは事実だ。
仁祖には、仁穆王后に大きな恩があるのだ。
それなのに、仁穆王后の娘を厳しく処罰したら、その影響はどこまで及ぶのか。




究極的にいえば、仁祖の王位の正統性すら危うくなってしまう。
そのことを崔鳴吉はわかっていたので、仁祖に翻意を促したのである。
病に苦しんで性格が偏屈になっているとはいえ、やはり仁祖は貞明公主に濡れ衣を着せては絶対にいけないのである。そのことが功臣たちの総意であった。
それにしても、貞明公主は母の仁穆王后を失ったあと、仁祖の豹変を受けて苦労の連続であった。
それを耐え忍んでいくのだから、やはり芯が強い女性であったのだろう。
仁祖が即位してから13年後、1636年12月に朝鮮王朝に最大の危機が訪れた。
朝鮮半島の北方にあった後金が国名を清に変えてから、10万人以上の兵力で攻め入ってきたのだ。
朝鮮王朝は清の大軍に歯が立たず、朝廷は都の漢陽(ハニャン)を捨てて、南側の南漢(ナマン)山城に籠城した。
しかし、結果は見えていた。結局は、1637年1月に仁祖が漢江(ハンガン)のほとりまで出向いて、清の皇帝の前で土下座のごとき屈辱的な謝罪をした。朝鮮王朝が清に完全に屈伏したのである。




朝鮮王朝は莫大な賠償金を課され、仁祖の息子3人も人質として清に連れ去られてしまった。すべては、仁祖の外交政策の失敗のせいである。
この国難の最中、貞明公主は都の漢陽を離れて、漢江の河口の目の前に浮かぶ江華島(カンファド)に避難した。
このときの有名なエピソードが今も語り種になっている。

(第9回に続く)

文=康 熙奉(カン ヒボン)

歴史に生きた貞明公主「第1回・誕生」

歴史に生きた貞明公主「第2回・悲劇」

歴史に生きた貞明公主「第7回・危機」

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