歴史に生きた貞明公主「第1回・誕生」

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公主(コンジュ)というのは、王の正室が産んだ王女のことだ(王の側室が産んだ王女は翁主〔オンジュ〕と言う)。数多くの公主の中でも、貞明公主(チョンミョンコンジュ)は歴史的に有名だ。どんな女性だったのだろうか。

写真=韓国MBC『華政』公式サイトより




側室から生まれた初めての王

貞明公主の父は、14代王・宣祖(ソンジョ)である。
宣祖は朝鮮王朝で初めて側室から生まれた王だった。つまり、嫡男系ではなく、庶子系なのだ。
13代王までは、すべて王の正室から生まれていた。しかし、宣祖は11代王・中宗(チュンジョン)の側室から生まれた王子の息子なのである。このことが、彼にとっては大変なコンプレックスだった。
それだけに、宣祖は自分の後を継ぐ王に関しては、絶対に嫡男から選びたいと思っていた。しかし、望みは叶いそうもなかった。宣祖の正室だった懿仁(ウィイン)王后には子供ができなかったからだ。
正室から生まれた子供がいなかったので、宣祖は側室が産んだ王子の中から世子(セジャ/王の正式な後継者)を選ばなくてはならなくなった。
候補は2人。長男の臨海君(イメグン)と二男の光海君(クァンヘグン)だった。この兄弟は宣祖が寵愛した側室の恭嬪(コンビン)・金(キム)氏から生まれていた。




年長の王子を候補筆頭にする原則からすれば、臨海君こそが世子にふさわしかったが、彼は豊臣軍による朝鮮出兵の際に加藤清正の軍に捕虜となり、釈放された後も屈辱から立ち直れず、酒に溺れてしまった。
評判が悪くなる一方の臨海君と比べて、光海君は朝鮮出兵の際に功績をあげ、能力的にも評価が高かった。
正室から王子が生まれない中で、世子の座は光海君にほぼ決まりかけていた。しかし、その後に状況が一転する事態となった。
懿仁王后が1600年に世を去り、宣祖は仁穆(インモク)王后を継妃に迎えたのだが、その仁穆王后が1603年に懐妊したのである。もし男子が生まれれば、宣祖にとって待望の嫡男であった。
1603年、仁穆王后は宣祖の子供を産んだ。
王子ではなく、王女であった。この王女こそが貞明公主だった。
王位を継承できる男子ではなかったが、正室が産んだ初めての子供だったので、宣祖は貞明公主をとても可愛がった。




貞明公主に弟が生まれたのは、彼女が3歳のときだった。仁穆王后が1606年に永昌大君(ヨンチャンデグン)を産んだのである。
宣祖は、あきらめかけていた嫡男を得て、世子を光海君から永昌大君に替える腹積もりだった。
彼が長生きしていれば、間違いなく後継者は永昌大君になっていたはずだ。
しかし、宣祖は1608年に亡くなってしまった。さぞかし無念であったことだろう。自分の目で嫡男の即位を見ることができずに……。
宣祖が亡くなったとき、貞明公主は5歳で、永昌大君は2歳だった。
2歳といえば、まだ言葉も満足に話せない。この幼さで王になることは難しいと、仁穆王后も認めざるをえなかった。彼女は王位継承問題で主導権を握れる立場にあったのだが、自分のお腹を痛めて産んだ永昌大君を次の王にごり押しすることはできなかった。
せめて、宣祖があと3年生きていれば……。
5歳であれば、王に即位できる可能性があったのだが、やはり2歳では、とうてい無理だった。




「貞明が男であったならば……」
仁穆王后もそう思いながら、ため息をつかざるをえなかった。
結局、光海君が宣祖の後を継いで15代王として即位した。仁穆王后は「王の母」を意味する大妃(テビ)となった。
大妃といえば、王族の最長老である。朝鮮王朝は儒教を国教にしており、「長幼の序」を厳格に守る倫理観が強かった。
「よもや光海君が私を邪険にするはずがない」
仁穆王后はそう楽観していたのだが、それはあまりに甘かった。以後、仁穆王后と貞明公主と永昌大君は、過酷な運命にさらされていく。

(第2回に続く)
文=康 熙奉(カン ヒボン)

歴史に生きた貞明公主「第2回・悲劇」

歴史に生きた貞明公主「第3回・才能」

歴史に生きた貞明公主「第4回・歓喜」

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