日韓の二千年の歴史21/善隣関係の復活

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家康と面会

呂祐吉たちは1607年5月に江戸城で秀忠に謁見した。その際に朝鮮王朝の国書を徳川幕府に差し出したのだが、その国書も実は対馬藩が密かに書き直したものであった。
なにしろ、朝鮮王朝の国書は徳川家康が出した国書の返書という形式になっている。書き出しは返書を意味する「奉復」になっているが、そのまま秀忠が受け取ると、対馬藩が勝手に国書を出していたことが露顕してしまう。そこで対馬藩は朝鮮王朝の国書の書き出しを「奉復」から「奉書」に書き直した。それ以外にも数多くの個所で書き直しが行なわれている。
そうした裏工作があったとはいえ、朝鮮王朝と徳川幕府は両国の交流促進で合意した。ここに、戦乱終結からわずか9年で国交が回復されたのである。
しかも、朝鮮王朝は日本に連れ去られた人々の送還を徳川幕府に正式に約束させた。実際には、朝鮮通信使が往来する道中に自ら名乗り出てきた人も多く、最終的に1400人ほどの人たちが呂祐吉たちと一緒に帰国している。第1回目の使節としては成果も十分であった。




呂祐吉は江戸からの帰路で家康と面会している。
駿府で家康が朝鮮通信使の一行を大いに歓待したのである。
「今後は両国の和平を大いに望みます」
家康は上機嫌でそう語った。
以後、朝鮮王朝と徳川幕府の間で信頼に基づく善隣関係が始まった。
(次回に続く)

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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