日韓の二千年の歴史21/善隣関係の復活

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幕府の言い分

後に江戸時代に12回来日することになる朝鮮通信使の第1回目が釜山(プサン)を出発したのは1607年2月のことだった。
正使は呂祐吉(ヨ・ウギル)で使節団の総人数は460余人である。
一行は対馬を経由し、瀬戸内海を通って大坂に上陸した。さらに、京都を経て浜松までやってきた。彼らにとっては、家康に国書を渡すのが一番の目的である。
しかし、浜松で朝鮮通信使を迎えた幕府の役人は、呂祐吉に対して2代将軍・徳川秀忠に国書を渡してほしいと通告してきた。
呂祐吉は首を振った。なにがなんでも家康に渡したいと頑迷に主張した。朝鮮王朝の国王からも「家康に渡すように」と念を押されている。それが果たせなければ国に戻れない、と悲壮な覚悟であった。
しかし、呂祐吉の願いは叶わなかった。
すでに家康は2年前に将軍職を息子の秀忠に譲っていた。隠居の身であれば、朝鮮王朝の正式な国書を受け取るわけにもいかない。




それよりも家康は、秀忠を朝鮮王朝との関係修復を成し遂げた当事者にすることで、息子の権威を高めようとしたのである。
その思惑を呂祐吉は知る由もなかったが、彼には日本に連れてこられた人々を帰国させるという大事業が控えていた。その際には徳川幕府の協力が不可欠である。そこで呂祐吉は憤慨する気持ちをなんとか抑えて、幕府の言い分を承諾した。
(ページ3に続く)

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