日韓の二千年の歴史8/高句麗と日本

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中国大陸で589年に隋が統一を果たすと、高句麗(コグリョ)は身が凍るほどの脅威を感じた。それまで高句麗は日本と関係を保っていなかった。しかし、隋の攻撃を受け始めると、「西から侵攻を受けるなら、東の国と連携しよう」という気持ちに傾き、日本との外交に乗り出した。

写真=植村誠




慧慈と聖徳太子

高句麗が日本と関係を持つと、多くの僧侶が日本にきて様々な文化を伝えている。
中でも、595年に来日した慧慈(えじ)が有名だ。
彼は聖徳太子の師匠と言われる。
聖徳太子は慧慈の支援を受けて、仏教教典の研究会を創設した。そして、仏教教典の注釈書作成を行なった。
作成には渡来系の僧侶も加わった。
しかし、聖徳太子に一番頼りにされたのが慧慈だった。




彼は日本に長期滞在して615年に高句麗に帰国した。
その7年後だった。
聖徳太子が世を去ったことを知らされたのだ。
慧慈は慟哭(どうこく)した。
彼は自ら供養を行なって聖徳太子を讃えた。
「日本に聖人がおられた。天から優れた資質を受け、大きな聖の徳を持ってお生まれになった方だ」
(ページ2に続く)

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