日韓の二千年の歴史3/仏教伝来

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475年が転換期

古代の朝鮮半島で、高句麗(コグリョ)の南下政策が過激になったのが5世紀の後半だった。
475年、高句麗軍の兵3万は百済(ペクチェ)の都であった慰礼城(ウィレソン/現在のソウル近郊)を激しく攻めた。
百済の21代王・蓋鹵(ケロ)王は落城寸前に数十騎の供を連れて城門を出て西に逃れようとしたのだが、高句麗軍の追撃によって殺された。
百済は、都を西南の熊津(ウンジン/現在の公州〔コンジュ〕)に移した。しかし、劣勢を挽回することができず、国家として存亡の危機を迎えた。
この苦境が日本にも影響する。なぜなら、難を逃れようとして多くの百済人が日本に向かったからだ。
つまり、475年というのが、日本の渡来人にとっては大きな転換期になったのである。日本に来た百済人は専門知識や技術を持っていた。逆にいえば、自分たちが培ってきた能力を日本で高く買ってくれると思ったからこそ、母国の危機も省みずに安全な日本になだれこんできたのだ。
彼らは畿内に住み、様々な専門職に就いた。




朝廷の行政を任された者もいるし、鍛治・機織(はたおり)・土木といった専門分野で力を発揮した者も多い。
その存在は、日本の政治から暮らしの隅々まで顕著な影響をもたらした。
(ページ2に続く)

日韓の二千年の歴史4/蘇我氏と物部氏

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