「東医宝鑑」の作成開始
許浚はすぐに医学書「東医宝鑑(トンイポグァン)」の作成に取り掛かる。王の主治医の仕事を続けながら、研究と執筆をしていた彼は、高い官位を得て大出世した。しかし、1608年に宣祖が世を去ってしまう。
朝鮮王朝では、王が亡くなると、その責任を王の主治医が取らされる。もちろん、偉大な医官である許浚も例外ではない。彼は死罪となることは免れたが、流罪となってしまった。
許浚は失意の日々を過ごしていた。そんな彼に救いの手を差し伸べた人物がいた。宣祖の後を継いだ15代王・光海君(クァンヘグン)である。許浚の偉大さを若いときからずっと近くで見ていた彼は、自分の主治医として宮廷に呼び戻した。(ページ3に続く)