軟禁状態に近い処遇
清正の死後、肥後の国を治めていたのは清正の息子の加藤忠広であった。彼は幼くして家督を継いだが、思慮に欠ける人物だった。それが、余大男にとっての不運。帰国願いが当然受理されると思っていたのに、加藤忠広は親子の情がわからず、余大男の帰国を許さなかった。そればかりか、手紙のやりとりも禁じる有様だった。
余大男の嘆きは大きかった。彼は暗澹たる日々を過ごす中で、なんとか父母に連絡をしようと試みた。
また、父母が息子にあてた手紙の中のわずかばかりが余大男に届くこともあった。細い糸をお互いにたぐりよせるように、親子の細々とした言葉の交換が続いた。
父はこう書いてきた。
「領主に懇願しなさい。年をとった両親には一人息子の私だけしかいない、と。心を尽くしてお願いすれば、人の心が動かぬはずはないであろう」
しかし、息子は1625年に送った手紙にこう書くしかなかった。
「領主には重ねて陳情しているのですが、気分を害しているのか、なんの決断もしてもらえないままに月日が流れています。今は、領主の兵たちに監視されて、まるで籠の中の鳥のようです。この手紙すらも、私が親しくしている人に頼んでこっそり出さなくてはならないのです」
さらに、手紙の中で余大男は、「どうして私一人だけに、行ったきり帰ってきてはならぬと天が命じたりするでしょうか」と、一縷の望みを決して捨てないという強い意思を示した。
しかし、その切実な思いも、人情の機微を知らぬ加藤忠広には届かなかった。
そればかりか、余大男はますます加藤忠広から疎まれ、軟禁状態に近い処遇を受ける始末だった。(ページ3に続く)