滅亡した百済の有力者
目の前の鳥居をしばらく見上げたあと、説明板に目を向けた。そこには、次のように神社の由来が書かれてあった。
百済国王の禅広は、新羅・唐連合軍によって祖国が滅亡した際、日本に亡命してきた。やがて朝廷に仕えることとなり、百済王氏という姓を賜り、難波の地に居住した。
陸奥守百済王の敬福(きょうふく)は聖武天皇の東大寺大仏鋳造に際し、陸奥国で産出した金を献上し、その功により河内守に任ぜられた。敬福は中宮の地を賜り、氏寺として百済寺、氏神として百済王神社を造営し、一族ともどもこの地に住みついたと考えられている。
やがて百済王氏一族は、皇室や高級貴族と姻威関係をもち、朝廷内での地位を高
めていった。特に桓武天皇は交野ヶ原の地をしばしば訪れ、百済王氏と親交を深めた。
その後、度重なる火災により壮大な伽藍は灰燼に帰し衰退した。やがて奈良興福寺の支配を受け、再興が図られた。
こうした説明を読むと、この地が、滅亡した百済の有力者たちにゆかりがある場所だとわかる。
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