高麗神社
若光にゆかりがある場所は聖天院だけではない。むしろ、そこから500mほど北にある高麗神社こそが、若光の遺徳を今に伝えているといえる。なにしろ、若光を祀る神社であり、宮司は若光の子孫が代々務めているのだ。1300年近くの長きに渡り、祖先の血筋をじかに受け継いでいる子孫たちがいるということに率直に驚く。これこそがまさに伝統の真髄に違いない。
二の鳥居をくぐって社殿に至る。途中、著名人の参拝記録や植樹が目に入る。錚々たる人たちがこの神社を訪れている。社殿の前に立つとなおさら、この神社が持つ伝統の重みを実感する。
敷地の一番奥では、高麗家住宅を見た。かなり手を加えられているだろうが、元は1596年の建築と伝えられる住宅で、宮司を代々務めた高麗氏の住居として使われたものだ。屋根は入母屋造りの茅葺き。見事なほどの造りだ。
さらに、しばらく高麗神社の境内を散策する。
ここで、誰もが思う疑問に答えなければならない。
高句麗人が住む地域なのに、なぜ高麗郡と呼ばれたのか。
実は、日本の古代に高句麗は高麗と呼ばれていて、往時の文献にも高句麗は高麗と書かれている。
朝鮮半島では新羅のあとに統一国家の高麗(コリョ/日本語の読みは「こうらい」)が生まれたが、それとは関係がない。つまり、日本の地名に残る高麗は高句麗のことなのである。
ちなみに、日本で馬のことを駒というのも、高麗が由来になっていると言われている。その説に従えば、「駒(こま)」という漢字は「高麗(こま)」が転じたものである。高句麗は勇壮な騎馬国家であったから、確かに「高麗」は馬に通じる。今の日本で「駒」が付く地名は、古く高麗と関係がある場合も多い。
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