歴史に生きた貞明公主「第2回・悲劇」

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14代王・宣祖(ソンジョ)と仁穆(インモク)王后を両親にして1603年に生まれた貞明公主(チョンミョンコンジュ)。弟は3歳下の永昌大君(ヨンチャンデグン)だった。宣祖が1608年に亡くなり、異母兄の光海君(クァンヘグン)が15代王になったのだが……。

写真=韓国MBC『華政』公式サイトより




年が離れた兄弟

光海君は1575年の生まれである。
貞明公主よりは28歳上で、永昌大君より31歳も上だった。
これほどにも光海君は、貞明公主や永昌大君と年が離れていた。
そんなこともあって、貞明公主と永昌大君は光海君をとても慕っていた。兄というより、本当の父親のように思っていたのだ。
しかし、王位に上がったあと、光海君が妹と弟に向ける視線はガラリと変わってしまった。妹の貞明公主のほうは変わらずに可愛がったのだが、永昌大君のほうは妹ほどには優しく接しなかった。宣祖の正統的な嫡男である永昌大君が王位を脅かすかもしれない、という警戒心が働いたからだ。
1608年に王となった光海君の側近は、高官の李爾瞻(イ・イチョム)だった。さらに、女官の金介屎(キム・ゲシ)が控えていた。
李爾瞻と金介屎は冷血そのものだった。2人は確かに光海君が王になる過程で貢献したのだが、自分たちの立場を守るためにも光海君の王位を磐石にする必要があり、その目的を果たすために陰謀をめぐらせた。




最初に標的になったのが光海君の兄の臨海君(イメグン)だった。彼は長男でありながら王になれなかった腹いせで、光海君への批判を強めていた。
臨海君を危険分子とみなした李爾瞻と金介屎は、1609年に臨海君を流罪にしたうえで殺害してしまった。
この骨肉の争いに光海君がどこまで関与していたかは定かでない。李爾瞻と金介屎が先走って凶行に及んだとしても、光海君も報告を受けていたはずだ。その点では、いくら王といえども光海君の罪は免れない。
李爾瞻と金介屎が次に狙ったのが永昌大君である。
側室から生まれた光海君と違い、王の正室から生まれた永昌大君には相応の支持者がいた。このことを危惧した李爾瞻と金介屎は、永昌大君が謀反を起こそうとしたという容疑をでっちあげて、わずか7歳の子供を仁穆王后から引き離して江華島(カンファド)に流罪にしてしまった。
永昌大君が連れ去られるとき、彼は「姉上と一緒でなければ行かない」と駄々をこねた。大好きな姉の貞明公主と別れるのが絶対に嫌だったのだ。




しかし、光海君の一派は母親の仁穆王后から無理に永昌大君を引き離し、泣き叫ぶ子供を強引に島流しにしてしまった。
3歳下の弟を溺愛していた貞明公主。彼女はまだ10歳だったが、弟と引き離されて涙がかれるほど悲しんだ。
江華島に流罪となった永昌大君。母と姉から引き離されて、どれほど寂しく心細い日々を過ごしたことか。
そんな子供に、さらなる魔の手がのびる。
1614年、李爾瞻と金介屎が送った刺客は、永昌大君がいた部屋のオンドルの温度を異様に高温にした。それによって、永昌大君は蒸された状態で命を断たれてしまった。実に、残酷な死に方だった。
我が子を失った仁穆王后は絶望の穴に落とされた。
それは、姉の貞明公主も同じだった。
そんな2人に対して、光海君はさらにひどい仕打ちをした。
仁穆王后の大妃(テビ/王の母)という資格を剥奪し、王女であった貞明公主を庶民に格下げにした。そのうえで、2人を西宮(ソグン/現在の徳寿宮〔トクスグン〕)に幽閉してしまった。
こうして、2人にとって長く苦しい監禁生活が始まった。
(第3回に続く)
文=康 熙奉(カン ヒボン)

歴史に生きた貞明公主「第1回・誕生」

歴史に生きた貞明公主「第3回・才能」

歴史に生きた貞明公主「第4回・歓喜」

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