善徳女王はいかに生きたか(前編)

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676年に朝鮮半島を初めて統一した新羅(シルラ)には、かつて3人の女王が誕生している。順に、善徳(ソンドク)女王、真徳(チンドク)女王、真聖(チンソン)女王である。




小さいころから頭脳明晰

3人の女王の在位期間を見ると、善徳女王が632年から647年、真徳女王が647年から654年、真聖女王が887年から897年まで、となっている。
つまり、新羅で最初に女王になったのが善徳女王なのである。
この「史上初」という意味は非常に大きい。そんな女王の姿を、歴史書(主に『三国史記』)をもとに追ってみよう。
善徳女王の「善徳」とは、彼女の死後に付けられた諡(おくりな)である。もともと、彼女の名前は徳曼(トンマン)と言う。
残念ながら、彼女が生まれた年は正確にわかっていない。新羅の26代王の真平(チンピョン)王の長女として生まれ、小さいころから頭脳明晰で情が深かった。
父の真平王は579年に即位して632年に亡くなっている。つまり、50年以上も王位に就いていたわけで、そのあとに王の座を引き継ぐのは大変だった。しかし、才能を認められていたからこそ、徳曼は王に推されたのだ。




善徳女王がいかに聡明であったかを物語るエピソードがある。それは、まだ徳曼が王になる前の話だった。
中国から牡丹の花の絵と種子が送られてきたので、父親の真平王は、娘の徳曼に喜んで見せた。
すると彼女は、牡丹の種子を見ながら「この牡丹の花は美しく咲くでしょうけど、きっと香りがないはず」と言った。
真平王は娘が変なことを言いだすので、笑ってしまった。
「なぜ花に香りがないとわかるんだ」
真平王がそう尋ねると、徳曼は堂々とこう言い切った。
「まず、牡丹の花の絵をご覧ください。この花に蝶がまったくいませんよね。たとえば、すてきな美人であれば、男性が次々に寄ってくるでしょうし、美しい花に香りがあれば、蝶や蜂が寄ってくるものでは……。この花を見るかぎり、いくら美しくても蝶や蜂がまったくいませんから、たぶん、香りがないのでしょう」
そう言われて父親の真平王も半信半疑だったが、実際に牡丹の種子を蒔いてみると、花には香りがなかった。




まさに徳曼の言うとおりになったのである。
この話が広まると、誰もが「いったい彼女はどれだけ頭がいいのだろうか」と大いに感心した。
632年、徳曼は新羅の王に即位して善徳女王となった。
彼女はすぐに、民の生活を気遣う善政を行なった。
即位1年目の冬、領土の各地に使者を派遣して、一人暮らしの老人、寡婦、孤児など生活が苦しい者たちを慰問している。
翌年の633年には、春に大赦を行ない、各地の税金を1年間免除するという政策も実施した。
この他にも、毎年のように使者を各地に派遣して、恵まれない人たちを慰問しており、王宮にいながらでも民衆の生活を心配し、少しでも手助けになるような政治を実行していった。
また、善徳女王が特に力を入れたのが中国大陸を支配していた唐と良好な関係を結ぶことだった。




そのために善徳女王はしきりに使者を唐に派遣して朝貢した。
当時、新羅は朝鮮半島北部を占める高句麗(コグリョ)と西南部を占める百済(ペクチェ)と激しく領土争いを繰り広げていた。
善徳女王としては唐の支援を得ることがとても大事だと考え、あえて身を低くして唐に朝貢したのである。
もちろん、高句麗や百済と激しく対峙する戦時体制だったので、敵からの攻撃に備える準備も怠らなかった。
638年には、高句麗が新羅の北側の領土を攻めてきて、民衆たちが驚いて山の中に逃げ込むという出来事があった。
善徳女王は、民衆に落ちつくように呼びかけ、すぐに大軍を北方に派遣して高句麗の兵と戦い、これに勝利した。
(後編に続く)

文=「ロコレ」編集部

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