張禧嬪(チャン・ヒビン)はワガママ粛宗(スクチョン)の犠牲者の1人!

このエントリーをはてなブックマークに追加

 

張禧嬪(チャン・ヒビン)は「朝鮮王朝三大悪女」の一人に数えられているが、一般的な印象では一番の悪女と思われてきた。それは、これまでに韓国時代劇で辛辣(しんらつ)に描かれてきたことが強く影響している。しかし、正史の「朝鮮王朝実録」に残された記述を見るかぎり、彼女は悪女ではない。それなのに、なぜ悪女にされてしまったのか。それには粛宗(スクチョン)が関係している。

朝鮮王朝三大悪女のことを詳しく説明した『いまの韓国時代劇を楽しむための朝鮮王朝の人物と歴史』(康熙奉〔カン・ヒボン〕著/実業之日本社発行)




粛宗と張禧嬪の出会い

張禧嬪が韓国時代劇において「永遠の悪役ヒロイン」になっているのは、彼女が底辺から最高峰までのぼりつめたこと、その栄華に溺れて没落したこと、そして、死罪になった後に息子が王になって母の究極の願いを叶えたこと、という唯一無二の女性だったからだ。彼女は人生そのものがドラマツルギー(戯曲作法)だった。どんな優れた劇作家も思い浮かばないほどの……。
しかし、そのあおりで必要以上に「ワル」が強調されすぎたきらいがある。
むしろ、冷静に「朝鮮王朝実録」の記述だけを根拠とするならば、張禧嬪の悪評のほとんどは粛宗に責任がある。彼こそは、法を曲げてまで張禧嬪を異様に優遇し、愛がさめると簡単に放り出してしまった王である。
果たして、粛宗と張禧嬪の関係にはどんな特異性があったのだろうか。
もともと、コネをうまく使って宮中の女官となった張禧嬪。彼女の美貌に粛宗が惹(ひ)かれたのは1680年と推定されている。粛宗は1774年に13歳で即位しており、21歳の張禧嬪に出会ったときは19歳だった。




粛宗はすぐに張禧嬪に夢中になったが、実母の明聖(ミョンソン)王后が二人の仲を許さず、張禧嬪は宮中から出されてしまう。
そんな張禧嬪を宮中に呼び戻したのは、粛宗の正妻であった仁顕(イニョン)王后であった。ここに、彼女の人のよさがよくあらわれている。
(ページ2に続く)

朝鮮王朝おもしろ人物列伝(19代王・粛宗編)

朝鮮王朝おもしろ人物列伝(張禧嬪編)

張禧嬪(チャン・ヒビン)はなぜ王妃になれたのか/朝鮮王朝秘話1

張禧嬪(チャン・ヒビン)を自害させたトンイの告発/朝鮮王朝秘話4

「張禧嬪(チャン・ヒビン)よりトンイが悪女!」と言える3つの根拠

固定ページ:

1

2 3

必読!「ヒボン式かんたんハングル」

「韓流ライフ」というジャンルの中に、「ヒボン式かんたんハングル」というコーナーがあります。ここには、日本語と韓国語の似ている部分を覚えながら韓国語をわかりやすくマスターしていく記事がたくさん掲載されています。日本語と韓国語には共通点が多いので、それを生かして韓国語の習得をめざすほうが有利なのです。ぜひお読みください。

ページ上部へ戻る