英祖と思悼世子の悲しい物語/第2回「即位」

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景宗(キョンジョン)が早世したことで、淑嬪(スクピン)・崔(チェ)氏の息子だった延礽君(ヨニングン)が21代王・英祖(ヨンジョ)として即位した。彼は、王としてどのような政治を行なったのだろうか。




4年2カ月の在位

老論派(ノロンパ)を追い出していた少論派(ソロンパ)だが、その栄華は長く続かなかった。なぜなら、王である景宗が在位わずか4年2カ月で世を去ってしまったからだ。
彼の後を継ぐのは淑嬪・崔氏の息子の延礽君である。それは、少論派の政権の終焉を意味した。少論派にとって、景宗に子供がいなかったことが一番の痛手だった。
「朝鮮王朝実録」には、景宗の人柄について「幼いころから学問に励み、仁顕(イニョン)王后に孝を尽くした」と書かれていた。彼の母親である張禧嬪(チャン・ヒビン)は、仁顕王后を憎んでいたが、息子の景宗は仁顕王后を心から慕っていた。さらに、異母弟の延礽君の面倒も見ていた。
張禧嬪の息子として生まれてきたことを悩み苦しんでいた景宗だが、他人への思いやりが深い人物だったことは間違いない。
景宗が世を去ったことで、世弟(セジェ)だった延礽君が1724年8月30日に昌徳宮(チャンドックン)の仁政門(インジョンムン)で即位式を行ない、21代王・英祖(ヨンジョ)となった。このとき彼は30歳だった。




英祖が新たな王となったことで、老論派と少論派の立場が逆転した。追放されていた老論派が政権に返り咲き、少論派の高官たちを次々に弾劾(だんがい)していった。しかし、各派閥から公平に人材を登用する蕩平策(タンピョンチェク)という政策を考えていた英祖は、その報復を最小限に抑えた。
その蕩平策によって、今まで働く場を与えられなかった官僚たちに重職が与えられ、彼らが職務を全うすることで政治が活性化していった。この政策は、人材を生かすうえで効果を発揮した。
それで自信を深めた英祖は、党争を克服して政治改革を進めようとしたが、順風満帆とはいかなかった。このとき、景宗毒殺の首謀者という噂が流れていて、それは英祖をとても悩ませていた。
いったい景宗毒殺説とはどういったものなのだろうか。当時のことを振り返ってみよう。景宗の体調が悪化したのは1724年8月20日だった。景宗は、胸とお腹に激しい痛みを感じて医師の診察を受けた。当初、原因はケジャン(蟹〔カニ〕を醤油〔しょうゆ〕漬けにした料理)と柿を食べたことによる食あたりだと思われた。




医官に処方してもらった薬を飲んで安静にしていた景宗だが、さらに病状は悪化する。22日には腹痛と下痢がひどくなり、その下痢は23日になっても治まらず、身体は衰弱していった。24日になると病状は深刻になり、医官があらゆる手を尽くしたが、景宗は回復することなく25日に亡くなった。
彼の死因は、蟹と柿の食べ合わせによるものだとされたが、それだけで死に至るとは思えない。英祖が王として即位した後に、「蟹に毒が入っていたのではないか」という噂が流れた。実際に、英祖は医官が反対するのも聞かずに景宗に蟹と柿を食べさせている。
さらに、景宗の病状が深刻な状態になったとき、英祖は「人参(にんじん)の煎じ薬を処方しろ」と意見したことで医官と対立している。結果的に、彼は自分の意見を押し通して強行させたが、その夜に景宗が亡くなった。
つまり、英祖は医官の言葉に耳を貸さなかったことで自分が疑われる原因を作ってしまったのである。
その噂は長く消えることなく、英祖を悩ませた。老論派と対立している少論派は、噂を何度も蒸し返すことで英祖に揺さぶりをかけたり、王権の交代を狙った反乱も起こしたりして、英祖は薄氷を踏むような立場まで追い込まれてしまった。
(第3回に続く)

文=康 大地(コウ ダイチ)

英祖と思悼世子の悲しい物語/第1回「英祖の人生」

英祖と思悼世子の悲しい物語/第3回「告発」

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