老論派と少論派の対立
景宗は少論派に支持されていたが、まだ老論派のほうが優勢だった。老論派は、景宗に子供がいないことから、淑嬪・崔氏の息子である延礽君を世弟(セジェ/王の後継者になる弟のこと)にすることを主張した。
その主張には大義名分があったことにより、延礽君は世弟になった。老論派は、王である景宗が病弱なのを理由に、延礽君に代理で政治をさせることを提案した。気の弱い景宗はその提案を受けいれたが、優柔不断だった彼はすぐにそれを取り消したりした。
1721年12月6日、少論派の高官の1人が「老論派が謀叛を計画している」という上訴文を出した。結果、4人の大臣が流罪に処されたことで領議政(ヨンイジョン/総理大臣)と左議政(チャイジョン/副総理)と右議政(ウイジョン/副総理)が少論派に独占されて、老論派は最大の危機に陥った。
政権を掌握した少論派が、老論派にさらなる追い打ちをかける。1722年3月27日、地方の官吏でありながら出世を望んで少論派の手先となっていた睦虎龍(モク・ホリョン)が「刀や毒薬などで殿下を殺害しようとした逆賊がいます。王朝の安泰のために早く捕えるべきです」と訴え出た。
そのとき睦虎龍があげた逆賊の名前は、先に処罰された4人の大臣の親族や後輩だった。睦虎龍の告発を利用して大謀反事件に仕立てた少論派は、老論派の関係者を次々に処罰した。それによって60人以上が処刑されて、老論派は政権から追い出されてしまった。
(第2回に続く)
文=康 大地〔コウ ダイチ〕
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