英祖と思悼世子の親子関係の正体1「老論派と少論派の派閥闘争」

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朝鮮王朝21代王・英祖(ヨンジョ)は、27人の王の中で一番長生きした王として知られている。彼は、自分の息子を餓死させるという事件を起こしているが、いったいなぜそんなことをしたのだろうか。




母親は淑嬪・崔氏

1694年9月20日、後に21代王・英祖になる延礽君(ヨニングン)が生まれた。彼の父親は19代王・粛宗(スクチョン)で、母親は側室の叔嬪(スクピン)・崔(チェ)氏である。しかし、世子(セジャ/王の後継者)は張禧嬪(チャン・ヒビン)の息子の昀(ユン)に決まっていたので、延礽君は世子にはなれなかった。
それでも、粛宗の気がいつ変わるかわからないことに不安を感じていた張禧嬪は、王妃である仁顕(イニョン)王后にきつく当たるようになった。彼女の様子を見ていた粛宗は、「世子を延礽君に変えるべきか」と考えたが、混乱を招きたくないという理由から自制していた。
1701年8月14日、仁顕王后が世を去った。その原因について、張禧嬪が呪詛(じゅそ)していたからだと淑嬪・崔氏から聞いた粛宗は、激怒して張禧嬪に自決を命じた。
張禧嬪の自決に関して、多くの臣下が反対した。なぜなら、彼女は世子の母親だからだ。それでも、粛宗の気持ちは決して変わらなかった。張禧嬪は王から毒を賜わる賜死(ササ)によって1701年に世を去った。




1718年3月9日に延礽君の母親である淑嬪・崔氏が48歳で世を去った。世子になっていたのは張禧嬪の息子の昀だが、母親が罪人として亡くなっているため、安心はできなかった。
当時、南人派(ナミンパ)と西人派(ソインパ)の派閥闘争が起きていた。初めは張禧嬪の後ろ盾があったため南人派が優勢だったが、張禧嬪が死罪となったことで勢力を失ってしまった。
代わりに勢力を強めた西人派が政権を牛耳っていたが、内部で意見の対立があって、老論派(ノロンパ)と少論派(ソロンパ)に分裂してしまう。2つの派閥のうち、粛宗が重用していたのは、淑嬪・崔氏と延礽君を支持する高官の多い老論派だった。
老論派は、世子の昀に対して、30歳になるのに子供が1人もいないことを攻めた。昀に子供がいない理由は、母親の張禧嬪が亡くなる前に、息子の下腹部(膀胱の上のあたり)を強く握ったことで残った後遺症だと思われる。
そのことに危機感を抱いた粛宗は、延礽君に代理で政治を任せようとしたが、昀を支持する少論派が反発して、延礽君を支持する老論派と対立が起こってしまう。




1720年6月8日、老論派と少論派の派閥闘争が起こる中で粛宗が世を去り、張禧嬪の息子の昀が後を継いで20代王・景宗(キョンジョン)として即位した。
(ページ2に続く)

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