日韓の二千年の歴史27/日韓併合

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日本と清は1885年4月に天津条約を結んだ。この条約では、「朝鮮半島から日本と清の両国軍隊が撤退すること」「朝鮮半島に再び兵を出すときは相互通告すること」が取り決められた。その年の夏に、興宣大院君(フンソンデウォングン)がようやく清から帰国した。それはすなわち、朝鮮王朝内部で政治の主導権争いが再び激化することを意味していた。




日清戦争が始まった

適切な農業政策を実行できない政権の腐敗によって、朝鮮半島の農民の生活は困窮するばかりだった。
そんな農民の救いとなっていたのが東学である。
東学とは、西学(キリスト教)に対抗する東洋思想(儒教・仏教・道教)を意味しており、その根底には人間平等と社会改革の思想があった。
1894年2月、東学を信奉する多くの農民が全羅道(チョルラド/朝鮮半島西南部)で決起して、役所を襲った。ここに「甲午(カポ)農民戦争」が始まったのである(「東学党の乱」とも呼ばれる)。
総大将は全琫準(チョン・ボンジュン)。彼に率いられた農民軍は5月末には全羅道をほぼ制圧した。
危機に瀕した政府が清の軍隊に頼ろうとすると、すかさず日本も在留邦人の保護を名目に出兵の構えを見せた。
「清と日本に出兵の口実を与えてはならない」




そう考えた全琫準は政府との和睦を実現させるのだが、それに構わず日本は出兵し、清の軍勢と衝突した。もはや日本と清の戦闘は避けられなくなった。
1894年8月1日、日本は清に対して正式に宣戦を布告した。ここに日清戦争が始まったのである。
戦争を遂行する日本の目的は、朝鮮半島を保護国にすることであった。実際、清との戦争中に朝鮮半島は日本の占領下に置かれた。
憤怒した農民軍は再び蜂起したが、日本軍に歯が立たず、全琫準は捕らえられて1895年3月に処刑されてしまった。
(ページ2に続く)

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