日韓の二千年の歴史16/室町時代

このエントリーをはてなブックマークに追加

 

1333年に鎌倉幕府が倒れ、日本の政権は室町幕府に移っていく。朝鮮半島では1392年に高麗王朝が滅び、代わって朝鮮王朝が誕生した。この朝鮮王朝は建国当初から倭寇の狼藉に苦しめられていた。

「応永の外寇」が起こったときの国王は4代王・世宗だった




三浦の制

「対馬こそが倭寇の根拠地である」
そう判断した朝鮮王朝は、1419年(応永26年)に大規模な船団を組織して対馬を襲った。これが世に言う「応永の外寇」である。
このときの朝鮮王朝の国王は名君と称された4代王・世宗(セジョン)だが、まるまる1週間も対馬は攻められ、2千戸近い家屋が焼失した。
朝鮮王朝としては「倭寇を懲らしめるため」という大義名分を掲げたが、被害を受けたのはむしろ罪のない庶民たちであった。
いくら倭寇に苦しめられていたとはいえ、朝鮮王朝はあまりに外交を無視して強硬な手段に出すぎていた。その穴埋めをするべく、1426年には新たに塩浦(ヨムポ/現在の蔚山〔ウルサン〕)を日本に向けて開港した。それまでは富山浦(プサンポ/現在の釜山〔プサン〕)と薺浦(チェボ/現在の鎮海〔チネ〕)が貿易港に指定されていたが、そこに塩浦を加えて朝鮮王朝は日本との貿易に力を注いだ。これが「三浦(サムポ)の制」である。貿易港となった3つの港には倭館が設けられ、朝鮮王朝と室町幕府の交流の場となった。




両国の政権は対等の立場を守り通した。ここで重要なのは、朝鮮王朝が日本の天皇家を交渉対象とせず、あくまでも足利将軍家だけを日本の統治者と見なしたことである。その証として、国書を出す際には足利将軍家を「日本国王」と称した。
(ページ2に続く)

日韓の二千年の歴史17/文禄の役

韓国はなぜ分断国家になったのか

日本に留学した韓国人がビックリするほど実感したことは?

ソウルに転勤となった日本人社員がホトホト困ったことは?

日本人が韓国に興味を持って留学した理由とは?

日本で多い「老舗」が韓国ではなぜ極端に少ないのか?

固定ページ:

1

2 3

必読!「ヒボン式かんたんハングル」

「韓流ライフ」というジャンルの中に、「ヒボン式かんたんハングル」というコーナーがあります。ここには、日本語と韓国語の似ている部分を覚えながら韓国語をわかりやすくマスターしていく記事がたくさん掲載されています。日本語と韓国語には共通点が多いので、それを生かして韓国語の習得をめざすほうが有利なのです。ぜひお読みください。

ページ上部へ戻る