開国した朝鮮王朝
日本が“朝鮮国は自主ノ邦”と規定したかったのは、清が宗主国でないことを強調したかったからだ。
そのほうが、日本が朝鮮半島に干渉するうえで都合が良かったのである。
さらに、この条約には「主要な港の開港」「自由貿易の推進」「日本領事による治外法権」などが織り込まれていた。日本の武力に屈した朝鮮王朝は、自国に不平等と知りながら条約を結ばざるをえなかった。
開国に踏み切った朝鮮王朝は以後、アメリカ、イギリス、ドイツ、ロシア、フランスとも外交関係を築いた。ただし、いずれも武力で威嚇された不平等な関係だった。
このように、日本や欧米列強の圧力に屈した朝鮮王朝。近代化の必要性を痛感し、まずは軍隊の改革に着手した。その結果、旧来の軍隊と、日本や西洋の軍制を取り入れた軍隊に分裂してしまった。
不満が募ったのが旧来の軍人たちだった。給料は遅配となり、食事面での待遇も劣った。怒った旧来の軍人たちが反乱を起こし、王宮や日本公使館を襲撃した。これが1882年の「壬午(イモ)軍乱」である。
事態は、明成王后だけでは収拾できなくなった。頼られたのが、失脚していたはずの興宣大院君である。彼が政界に復帰することで反乱は徐々に収束していった。
(ページ3に続く)