日韓の二千年の歴史24/途絶えた交流

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1764年に江戸時代で11回目にあたる朝鮮通信使の来日があったが、以後はまったく途絶えてしまった。そこには一体、どんな事情があったのだろうか。




松平定信の意向

徳川将軍が代わる度に幕府が対馬藩を通して朝鮮通信使の来日を要請するのが通常の手続きだった。
1787年に11代将軍・徳川家斉が襲職したときも、朝鮮王朝では近いうちに通信使の派遣要請が幕府から来るだろうと予測していた。
しかし、そんな動きは一向になかった。
慣例と違うことを不可解に思った対馬藩は、幕府に対して「朝鮮通信使を招聘する件はいかなる状況でございましょうか」とさぐりを入れている。しかし、幕府の態度がそっけなかった。「いつ招聘できるかわからない」という返事だった。
なぜ慣例が破られたのか。張本人は1787年6月に老中筆頭となった松平定信であった。彼は8代将軍・徳川吉宗の孫にあたるが、それよりも倹約を徹底させた「寛政の改革」を主導した人物としてよく知られている。
庶民の服装にまで質素を押しつけた“ケチの権化”のような松平定信。彼は、経費がかかりすぎる朝鮮通信使の招聘など考えていなかった。




「吉宗様の時代は朝鮮通信使の招聘に幕府は百万両も負担した。当時は年間予算でも80万両だったというのに……」
松平定信の頭の中には、そんなソロバン計算が働いていたのかもしれない。
(ページ2に続く)

日韓の二千年の歴史23/雨森芳洲と申維翰

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