日韓の二千年の歴史25/善隣関係の終焉

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朝鮮通信使の招聘に消極的だった松平定信が政治の表舞台から去っても、招聘問題は進展しなかった。朝鮮王朝は徳川幕府に不信感を持ち、あえて使節を派遣しようと思わなかった。こうして空白期間は延々と続き、気がついてみれば朝鮮通信使の来日が半世紀近くも途絶えてしまった。




対馬での易地聘礼

ようやく朝鮮王朝も妥協が必要だと察した。「易地聘礼もやむなし」という空気になり、幕府の申し出を受けて1811年に朝鮮通信使を派遣した。正式な使節の来日は1764年以来47年ぶりのことだった。
とはいえ、今回の旅程は対馬まで。その地で、豊前小倉藩主の小笠原忠固が徳川将軍の代理として朝鮮王朝からの国書を受け取った。
このとき、幕府が対馬藩に経費として与えたのは9万両だった。その金額で対馬藩は使節が宿泊する宿舎の新設などを行なったが、江戸まで呼ぶときのことを考えれば、ケタ違いの節約になった。
易地聘礼は、幕府にとって窮余の策だった。
もとはといえば、朝鮮王朝は日本からの使節をずっと釜山に留め置いていた。つまり、最初から最後まで易地聘礼に徹していたのである。
それにしても、あれほどの蜜月関係を築いていた徳川幕府と朝鮮王朝であったが、長い年月が過ぎて双方の国内事情が完全に変化していた。




深刻な財政難と欧米列強の外圧で徳川幕府の衰退が著しくなり、易地聘礼ですらもはや朝鮮通信使を招聘するのが困難になった。
(ページ2に続く)

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