誠信の交わり
洪致中は憤然として拒否したのだが、幕府と対馬藩が「予定通りに行ないたい。前回も行なっていることである」と譲らない。問答は険悪になる一方であった。
洪致中は「賊(秀吉)は、我が国の100年の仇。そんな賊が関わる場所で酒を酌み交わすことができるはずもない」と嫌悪感を露にするが、幕府と対馬藩は「門の外に幕を張って席を設ける」という代替案を出したり、「方広寺は秀吉より徳川将軍家に縁がある寺である」という歴史書籍を持ち出したりした。
話はこじれるばかりだったが、最終的には朝鮮通信使側が「正使と副使が出席して、従事官は欠席する」という妥協案を出した。主要三役の1人の従事官の欠席が抗議の意思表示だったのである。
帰路の途中まで順調だった9回目の朝鮮通信使の来日。京都での饗応で事件が起こり、結局は後味が悪いものとなってしまった。
そういった経緯をすべて知りながら、それでも雨森芳洲は自著の中で「誠信の交わり」を説いている。
「誠信というのは『まことの心』であり、互いにあざむかず争わず、真実をもって交わることなのです」
来日時に雨森芳洲と交流を重ねた申維翰は、帰路に対馬で雨森芳洲と別れた場面のことを自著『海游録』で書いている。それによると、雨森芳洲が涙に濡れながらこう言ったという。
「私も年を取りました。再び世間で仕事に励むことはないでしょう。これ以上、何を望めるというのですか。願わくば、君が国に帰って大いなる出世を果たすことを!」
雨森芳洲は51歳で、申維翰は38歳だった。
(次回に続く)
文=康 熙奉(カン ヒボン)