日韓の二千年の歴史23/雨森芳洲と申維翰

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1607年に始まった江戸時代の朝鮮通信使。17世紀には合計で7回も朝鮮通信使が来日している。徳川幕府の創設者の家康と基盤を磐石にした家光。この2人の大物将軍が朝鮮王朝との善隣関係に力を注いだことが17世紀の両国の蜜月につながったのである。

雨森芳洲の肖像画




新井白石の改革

朝鮮通信使の初来日から100年が経過すると、経費が莫大にかかることが問題視されるようになった。
特にその声を大きくしたのが新井白石だった。
彼は6代将軍・家宣(いえのぶ)に抜擢された儒学者で、自らの手腕を世に知らしめたいという野心を持っていた。
そんな彼が目をつけたのが朝鮮通信使だった。幕府が総力をあげて招聘する朝鮮通信使に関する諸問題を改善すれば、さらなる名声を得られるのが必然であった。
ちょうど1711年に8回目の朝鮮通信使が来日することが決定した。名目は家宣の将軍襲職祝いである。この機を絶好と捉えた新井白石は、特に2つの点で改革を断行したいと考えた。
1つは経費節減である。道中の過剰な饗応を戒めて、より質素な形で朝鮮通信使に応対することを幕臣や各藩に命じた。
もう1つは徳川将軍の呼称問題である。徳川将軍は朝鮮王朝に対して「日本国大君」と称していたのだが、それを「日本国王」にすべきだと新井白石は考えていた。




彼の意向は朝鮮王朝に伝えられた。そのうえで1711年に趙泰億(チョ・テオク)を正使とする朝鮮通信使が来日したのだが、このときは国書に入れる文字をめぐって紛糾することが多かった。明らかに、新井白石がめざした改革は朝鮮王朝側の激しい反発を生んでしまった。
このままでは国交断絶か。
そんな危惧も生まれたほどだ。ぎりぎりになって両国の決裂は回避されたが、今度ばかりは朝鮮通信使の来日も非常に後味が悪いものになってしまった。
これも、新井白石が功をあせりすぎたから、と言えるだろう。
彼は1716年5月に徳川吉宗が8代将軍に就いた直後に重職を解かれてしまった。
(ページ2に続く)

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