一般の市民も積極的にデモに参加
最終的に、彼は歴史の汚名を浴びることに躊躇した。やがて側近を集め、午前中に決意した軍の介入を取り消すことを伝えた。まさに紙一重の分かれ目となった。
もちろん、歴史に「もし」は不要だが、あえて想像力を働かせてみたい。もし全斗煥がアメリカの忠告を無視して軍の介入を強行したらどうであったか。韓国は再び暗黒の時代に戻っていただろうか。
答えはノーである。
まず、与党から次期大統領候補に推挙された盧泰愚(ノ・テウ)自身も、軍の動員に強く反対する立場をもっていたし、そのことを全斗煥にも伝えている。しかも、その意見は当の軍部の中でも大勢を占めるほどになっていた。
特に軍の上層部に抜擢されていた若手将官たちは国民のデモに理解を示し、強圧的に取り締まるべきではないと思っていた。
つまり、全斗煥がアメリカ側の意向を無視して軍の介入を決めたとしても、それがそのまま実行される可能性はむしろ少なかった。全斗煥自身が自らの悲劇を増幅させる可能性のほうが高かったのだ。
それは、軍部の意識改革を示すものであった。軍内部で軍の動員に否定的な意見が出ること自体が、韓国社会の劇的な変化を示している。すでに飛躍的な経済発展を通して、国民の間に成熟した政治意識が芽生えていた。民主化を押さえつける政治姿勢だけが古臭いものになっていたのである。
このときの民主化闘争の大きな特徴は、学生だけでなく一般の市民も積極的にデモに参加したことだった。これが重要なことであり、デモが尻すぼみに終わらない最大の理由でもあった。
豊かな生活を実感するようになった市民は、さらに高い理想を求めるようになり、その最大の目標として真の民主化を願っていた。その政治意識の高まりは、何よりも軍部の若手指導者層にも波及していたわけである。
「武力に頼るのではなく、対話による解決をはかるしかない」
その重大な事実にようやく気づいた与党の民正党は、野党との対話路線に歩みを進めた。20日になって民正党代表委員の盧泰愚は「私はどのような地位にも恋々としない。事態を政治的に解決するために自分のすべてをかける」と述べて、全斗煥に在野の指導者たちと積極的に対話の場をもつように建議した(後編に続く)
文=康 熙奉(カン ヒボン)