日韓の二千年の歴史12/近江の石塔寺

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百済から日本に渡来してきた人々の多くが定住した場所が近江であった。近江というのは江戸時代までの国名だが、近淡海(ちかつあわうみ)という古称に由来している。この場合の淡海とは琵琶湖のことで、近江は「琵琶湖の近くの土地」という意味であった。

石塔寺の三重の塔




百済系の渡来人

古代には近江に渡来人が多く住んでいた。
7世紀には朝鮮半島から渡ってきた人たちが数百人単位で近江の各地(特に神崎郡や蒲生郡)に定住している。
神崎郡や蒲生郡は、古代の一時期まで蒲生野と呼ばれる原野であったらしい。とはいえ、水が豊かな琵琶湖が近く、なおかつ広い平野であったために、蒲生野が耕作に適していることは間違いなかった。
朝廷は、渡来人の中でも特に百済系の人たちを近江に住まわせている。百済系は特別待遇だったのだが、そこにはどんな理由があったのか。
当時、高句麗系の人たちは東国に配置されることが多かった。
その頃の東国はまだ未開の地であり、高句麗系の人たちは関東の開拓に従事させられたのだ。
その一方で、朝廷は百済系の人たちを都から近い近江に居住させ、耕作に適した土地を与えている。高句麗系の人たちとは扱いが違ったわけだが、それは百済系の渡来人やその子孫がすでに朝廷で有力な地位を得ていたからである。




その恩恵で、新しくやってきた百済系の渡来人も優遇され、近江に土地を得て大いに勢力を伸ばした。
実際、百済寺を初めとして、近江には渡来人に関係した史跡が今も数多く残っている。それだけではない。近江といえば、江戸時代の大商家を数多く生んだ「近江商人」が有名だが、「文化度が高く計算能力に優れた近江人の気質の根源には渡来人がある」という言い伝えが長くこの地に残っていた。そういう意味でも、近江という土地は渡来人と切っても切れない関係を持っていた。
そうした渡来人の足跡を辿る中で特に注目されるのが石塔寺(いしどうじ)である。そこには、渡来人が築いたとされる巨石の石塔がある。
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