日韓の二千年の歴史11/百済寺跡と鬼室神社

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660年に百済が滅んだあと、多くの難民が日本に渡ってきた。百済では最後の国王であった義慈王(ウィジャワン)の直系子孫は絶えたが、日本には義慈王の息子の勇がいた。この勇は、663年の白村江の戦いに敗れた豊璋の弟で、664年に難波に住んでいたことは間違いないようだ。

枚方市の百済寺跡




百済寺跡

勇の曾孫が敬福(きょうふく)だ。
聖武天皇の時代に東大寺で大仏を鋳造するときに、敬福は陸奥国で産出した黄金を寄贈した。
その功績によって河内守に任ぜられ、中宮(現在の枚方市)の土地を拝領した。
750年頃、敬福は百済寺を建立して先祖を祀った。伽藍は壮大で他の寺院を圧倒する規模だったという。
すでに百済が滅んで90年が過ぎていた。王族の末裔が日本で成功したがゆえに、百済の名を冠した大規模な寺が建立されたのだ。
果たして、華麗な王朝文化を花開かせた百済の魂は、はるかに海を越えて日本にたどりついたのか。
しかし、どんな魂も時間の積み重ねによって幻になることは避けられない。度重なる火災によって伽藍は焼失を繰り返し、最後には灰塵に帰した。
結局、百済寺は約400年間続いて衰退したのである。今は、大阪府の東北端に位置する枚方市に跡地が残っている。




京阪電車の「宮之阪」駅を下りて、曲がりくねった坂をゆっくりのぼっていくと、「史蹟 百済寺跡」と記された石柱がある。
石畳の階段を上がると、そこが百済王神社で、右どなりが樹木が生い茂る公園になっている。その公園こそが、かつて百済寺があった場所だ。
この跡地では、寺の金堂、回廊、東塔、西塔、南門、中門などの遺構が発掘されたという。礎石がいくつか見える。東塔と西塔を支えた基礎のようだ。
あとは何もない。壮大な寺を想像させるものは何も残っていない。
平安時代の末期に姿を消した百済寺。以後は、土地が荒れ果てたまま放置されていたとしても、こうして「史蹟 百済寺跡」として現在に残っていることが奇跡のように思えてくる。
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