背後にある政治的な問題
粛宗と淑嬪・崔氏の出会いの背景には派閥闘争がからんでいた。
17世紀後半の朝鮮王朝では、政治的に西人(ソイン)派と南人(ナミン)派が激しく争っていた。その中で、西人派は仁顕王后を支持し、南人派は張禧嬪を後ろで支えた。しかし、仁顕王后が追放されたことによって、西人派が没落しかけていた。
完全に南人派の天下になってきたのである。そこで、西人派がなんとか起死回生を図ろうとして送り込んできたのが淑嬪・崔氏だったのかも。
粛宗は艶福家として知られていた。おそらく淑嬪・崔氏も相当な美女だったと思われるが、彼女は明確な意図を持って西人派から派遣されたはずである。実際、王宮で1人で仁顕王后の誕生日を祝っている、というエピソードを作らなければならないほど、かなり政治的な理由で王宮に送り込まれたのではないだろうか。
張禧嬪はせっかく王妃になったのだが、その途端に粛宗の気持ちは淑嬪・崔氏に移ってしまった。その末に、淑嬪・崔氏は1693年秋に男子を出産した。粛宗にしてみれば二男にあたるが、わずか2カ月ほどで夭逝してしまった。
その翌年、張禧嬪は王妃の座から引きずりおろされてしまう。この時点で張禧嬪は淑嬪・崔氏に負けたのである。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
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