第5回 不可解な生母の意図
米びつに閉じ込められた思悼世子(サドセジャ)の生死はどのようになっていたのだろうか。食料も水も与えられず狭い空間に閉じ込められたままの思悼世子は、まだ生きていたのかどうか。それは誰にもわからないことだった。
死後に名誉を回復
思悼世子が米びつの中で息絶えていることがわかったのは1762年閏5月21日のことで、閉じ込められて8日目だった。
少しでも想像力を働かせれば、思悼世子がどんなに苦しんだかがすぐにわかる。元来が怖がりの彼は手足を伸ばせないような狭い空間に押し込められて、恐怖の中で何日も苦悶した。
しかも、世子ともあろう人が、いつ亡くなったのかも確認できないのである。あまりにむごい死に方だった。
思悼世子が亡くなったという知らせを受けた英祖(ヨンジョ)は、息子を米びつに閉じ込めた張本人でありながら、意外にも深い哀悼の意を表した。
「どうして30年近い父と子の恩義を感じないでいられるだろうか。世孫(後の正祖のこと)の心の内を考え、大臣たちの意思を推し量れば、その名誉を回復して諡〔おくりな/死後に贈る尊称〕は思悼世子としたい」(ページ2に続く)