康熙奉の朝鮮王朝秘話!英祖と思悼世子の確執5

このエントリーをはてなブックマークに追加

復讐を果たした息子

思悼世子は“悲劇の王子”として名を残している。

一方、我が子を告発して“米びつ餓死事件”の一端を担った映嬪(ヨンビン)・李(イ)氏はその後どうなったのだろうか。

彼女は思悼世子の死から2年後の1764年7月に他界している。そのときの英祖の悲しみ方は尋常ではなかった。

しかも、英祖は映嬪・李氏の葬儀に際して、「側室の中でも第一等の礼にのっとって行なえ」と命じている。まさに特別待遇だった。

「朝鮮王朝実録」でも映嬪・李氏については「側室として40余年間務め、慎み深く沈黙を守り、不幸なことにも適切に対処し、功労が多かった」と記している。




そんな女性がなぜ息子の不利になることを告発したのだろうか。今となっては謎に包まれている。

結果的に、思悼世子は非業の最期を遂げたが、彼の息子が英祖の後を継いで名君として称賛された。それが22代王・正祖(チョンジョ)である。ドラマ「イ・サン」の主人公になった王だ。

正祖は即位後ただちに父親を陥れた者たちを厳しく処罰している。思悼世子の復讐は息子によって果たされたのである。

(終わり)

文=康 熙奉(カン ヒボン)
出典=「実録!朝鮮王朝物語/トンイからイ・サン編」

固定ページ:
1 2

3

必読!「ヒボン式かんたんハングル」

「韓流ライフ」というジャンルの中に、「ヒボン式かんたんハングル」というコーナーがあります。ここには、日本語と韓国語の似ている部分を覚えながら韓国語をわかりやすくマスターしていく記事がたくさん掲載されています。日本語と韓国語には共通点が多いので、それを生かして韓国語の習得をめざすほうが有利なのです。ぜひお読みください。

ページ上部へ戻る