国防を投げ出した総軍司令
1625年、出世街道を歩んでいたキム・ジャジョムだが、仁祖が長男のソヒョン世子(セジャ=王の後継者)の妻を選ぶ際に、無礼な発言をしてしまい流刑地に飛ばされてしまった。
彼が復職することができたのは、1627年に北方から後金が攻めてきたからだ。当時の朝鮮王朝は、“仁祖反正”の影響によって内乱が勃発するなど、国防に人材を投入できなかった。こうした人材不足の結果、キム・ジャジョムは司令官の1人として召集された。
キム・ジャジョムまで動員した後金との戦いで、朝鮮王朝は大きな打撃を受けた。しかし、後金は中国大陸の大国・明とも戦争中であり、朝鮮王朝にばかり構っているわけにはいかなかった。
こうして、後金と朝鮮王朝の間には、「明との戦いの邪魔をしない」という条件で和睦が結ばれる。しかし、この条約は明と友好な関係を築いていた朝鮮王朝にとって屈辱的なものだった。
それから数年後、明を滅ぼして国号を清に改めた後金は、再び朝鮮王朝に侵攻を開始する。キム・ジャジョムは都元帥として、2万の精鋭が預けられて西北方の防御全体を担当する。しかし、キム・ジャジョムは国防のために死力を尽くすどころか、防御拠点に兵と共に身を隠して、清の大軍を素通りさせてしまう。
その結果、清の軍は開戦からわずか1週間で首都・漢陽(ハニャン)を取り囲んでしまた。参考までに、1592年に豊臣秀吉の朝鮮出兵「文禄・慶長の乱」が起きた際に、豊臣軍が漢陽に辿りつくのは29日かかったと言われている。本来ならば、清の攻勢が始まった際、首都から離れた孤島の江華島(カンファド)に逃避する予定だったのだが、その時間すら稼ぐことができなった。
軍隊を総指揮できる権限をもつ都元帥がこのざまでは、朝鮮王朝に勝ち目などなかった。1637年、仁祖は劣勢を覆すことを諦めると、清に降伏する。もし、キム・ジャジョムが勇敢に戦っていれば、結末は変わっていたのかもしれない……。
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