ヘグン食堂のウナギ煮込み
しびれを切らして、彼女のほうから具体的な名前が出た。
「ウナギはどう? 美味しい店があるわよ」
「それで行きましょう」
私は二つ返事だった。別に、ウナギでなくても、鯛でも平目でもタコでも「それで行きましょう」と答えていただろう。ああ、決断力の弱さを嘆きたくなる。
「ヘグン食堂という店のウナギ煮込みが美味しいわよ。でも、1人みたいね。1人でも大丈夫だったかなあ」
そう言いながら、女性はわざわざ番号案内でヘグン食堂の電話番号を聞きだし、直接電話してくれた。まさに至れり尽くせり。客を無視して新聞の国際面を読んでいたとは、思えないほどの親切ぶりだった。
さらに、どこかに電話をかけて「お客さんをヘグン食堂まで送ってあげて」と命じていた。
<安い地図を一つ買っただけなのに……>
私はすっかり恐縮してしまった。
ほどなく黄色い軽トラックが国際書林の前で停まり、長身の青年が私を迎えにきてくれた。
私がていねいに礼を言って店を出ようとしたら、すでに女性は先ほどのように自分の世界に入って新聞を読んでいた。彼女の頭の中には、もう私の存在は影すらないかも。切り替えの早さは、惚れ惚れするほどだった。
軽トラックの助手席に座ると、青年は「すぐですから」と言ってアクセルを踏んだ。横顔は精悍で、くっきり見える頬骨が意思の強さを表していた。書店の女性の息子に違いはないが、書店だけでは親子が食べられないので、別な仕事をしているのだろうか。
でも、どんな仕事?
愛想もよく話しやすそうな青年だったので、これから根掘り葉掘り聞こうと思ったら、あっさりとヘグン食堂に着いてしまった。(ページ5に続く)