康熙奉講演録1「徳川幕府と朝鮮王朝の善隣物語」

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江戸時代の朝鮮通信使

徳川家康は1600年9月に関ヶ原の合戦に勝利して豊臣家から政権を奪い、1603年には江戸に幕府を開いて征夷大将軍になりました。家康は朝鮮出兵のときに自分の兵を1人も送っていません。また、豊臣家から政権を奪ったということは、朝鮮王朝からすると、自分たちに代わって仇を取ってくれたようなものです。

こうしたことで、朝鮮王朝は家康に好意を持っていました。家康も、国内を安定させるためには隣国と険悪だと困るので、朝鮮王朝との関係を早く修復したいと思っていました。しかも、国交が回復すれば、徳川幕府が外国から正統性を認められたことになるのです。いいことずくめでした。

朝鮮王朝は、対馬藩を通して日本から関係を修復したいという申し出を何度も受けました。朝鮮王朝も戦乱の中で日本に連れ去られた多くの人たちを帰国させる必要がありました。両国の意見が一致して、1607年に正式な外交使節が朝鮮半島から日本に来ました。画期的なことでした。

それ以降、朝鮮通信使は徳川将軍の就任を祝賀するという名目でたびたび来日していまして、合計で江戸時代に12回来ています。

経路は、都の漢城から釜山に行き、そこから船に乗って対馬、壱岐、瀬戸内海を通って大坂に上陸し、淀川を上って京都に着きました。そこから東海道を通って江戸に来て、徳川将軍と国書を交換しました。一行は大体400人から500人くらい。正使、副使、従事官を正式な三使として、さらに記録係、通訳、儒学者、医師、絵師、楽隊などが加わりました。沿道では土地の人たちと交流を重ね、文化使節としての役割も果たしました。

一方、日本からの使節は釜山で朝鮮王朝側の応接を受け、都の漢城までは行けませんでした。豊臣軍が攻め入ったときに、室町時代に日本の使節が辿った道を駆け上がったので、朝鮮王朝が警戒したのです。国内の状況を知られたくないということもあって、日本の使節とは釜山で国書の交換などを行ないました。外交というのは相互往来が原則ですから、朝鮮王朝はもっと度量を見せるべきでした。

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