康熙奉講演録1「徳川幕府と朝鮮王朝の善隣物語」

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悲劇の朝鮮出兵

豊臣秀吉は1590年に小田原の北条氏を滅ぼし、全国を統一して天下人になり、今度は中国大陸の制覇まで夢想しました。その手始めに朝鮮半島を攻め、1592年の4月13日に小西行長に率いられた第1軍が釜山に上陸。文禄の役が始まりました。

日本はずっと戦国時代だったので、豊臣軍は戦争に慣れていました。しかも、鉄砲という強烈な武器を持っていました。一方の朝鮮半島は、創設されて200年の間、異民族の侵入がなく、太平の世だったので、ぬるま湯に浸りきっていました。それが戦力の差に出ました。

豊臣軍は連戦連勝で、釜山(プサン)に上陸して20日くらいで都の漢城(ハンソン)を占拠。さらに、一気に北まで攻め上がります。しかし、朝鮮半島各地で義兵が決起。水軍の名将として知られる李舜臣(イ・スンシン)が大活躍をしたり明からの援軍が来たりして、戦況は膠着状態になりました。その中で和睦を結ぶ動きがあって、一時的に戦乱はやみました。

しかし、和睦は決裂し、1597年2月から慶長の役が起こりました。このときは朝鮮半島の南部で、豊臣軍と朝鮮王朝・明の連合軍が激しく戦ったわけですが、1598年8月に秀吉が世を去って豊臣軍が撤退。同年11月に慶長の役が終わりました。戦乱の際に豊臣軍は朝鮮半島を荒廃させて、おびただしい数の人たちを日本に連行しました。朝鮮王朝は激しく秀吉を憎み、両国の関係は本当に険悪でした。

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