百済(ペクチェ)の復興をめざした軍の中で、トップ2の豊璋と福信が内紛を起こした。結局、福信を殺した豊璋はすべての権力を自分のものにしたのだが、軍事的な指導者を失った百済復興軍の痛手は大きかった。そのことが如実に現れたのが、白村江の戦いだった。
日本の水軍が大敗
豊璋の要請によって、日本の朝廷はさらに2万7千の兵と船400隻を派遣し、百済復興軍を援護した。663年、白村江で新羅・唐の連合軍と百済・日本の連合軍が争った。けれど、日本はまだ海戦に慣れておらず、船400隻も唐の船に比べると小さかった。
しかも、作戦の失敗があり、日本の水軍は大敗。新羅・唐の連合軍の圧倒的な勝利となった。
豊璋はあっさりと逃亡。百済復興軍も総崩れとなり、百済は完全に命脈を絶たれた。豊璋は福信を殺すことによって、自らの命綱も断ち切ってしまったのである。
百済が完全に滅んだあと、多くの遺民が日本を頼って渡ってきた。本国の百済では、義慈(ウィジャ)王の直系の子孫は絶えてしまったが、まだ日本には義慈王の息子である勇がいた。
豊璋が百済へ行ったとき、勇が同行したのかどうかは定かではない。同行して戻ってきたのか、あるいは、そのまま日本に住んでいたのか。いずれにしても、664年の時点で勇は畿内に住んでいた。こうして、百済王の直系の血は、日本に残された。
勇の曾孫の敬福は富を蓄積し、東大寺を建立するときに黄金を寄贈して王朝から称賛された。その功によって中宮と呼ばれる地域を拝領した。それが、今の枚方(ひらかた)市に当たる。
750年頃、敬福は朝廷の許しを得て、先祖を祀る寺として百済寺を建立した。敬福は、この百済寺に歴代の百済王の位牌を丁重に祀って、先祖の霊を慰め続けた。百済寺は、それから約400年間続いたのだが、いつのまにかつぶれてしまった。
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