粛宗(スクチョン)はどんな国王だったのか

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粛宗の在位期間は46年。これは、21代王・英祖(ヨンジョ)に続いて二番目に長い在位期間である。粛宗は王として、生活水準を向上させるための功績を多く残しているのだが……。




派閥党争の激しかった時代

粛宗は、朝鮮王朝18代王・顕宗(ヒョンジョン)と明聖(ミョンソン)王后との間に生まれた。1674年に父親の顕宗が亡くなり、19代王として即位した。13歳という若さで王となった粛宗だが、当時は党争が激しく、王の補佐役の者たちが主導権争いを起こしていた。
たとえ王であっても、党争に巻き込まれれば命を危険にさらすことになる。それを理解していたのか、10代のころの粛宗は党争に深入りせずにおとなしくしていた。しかし、成人してからの彼は王権を強化して、対立する派閥を牽制しながら独自の政治を実現させていったのである。
さらに朝鮮王朝時代は儒教を国教にしていたため、商人は軽んじられて商業も低く見られた。その様子に粛宗は「商業が発展しなければ、人々の暮らしが良くならないではないか」と思い、商業を発達させて貨幣鋳造事業を行なった。
このように名君としての素養を見せる粛宗だが、女性関係では度々問題を起こしていた。党争を鎮めることに疲れ果てていた彼は、女性に癒やされたいという強い思いを持っていたのである。




粛宗には合計で4人の正妻がいて、その中には「朝鮮王朝3大悪女」の1人である張禧嬪(チャン・ヒビン)もいた。
粛宗は、宮中に女官としてやってきた張禧嬪の美貌に一目ぼれし、一夜を共にすることもあった。彼の母親である明聖王后は「この女はいつかわざわいを起こす」と思い、張禧嬪を王宮から追い出した。
1683年、明聖王后が世を去った。その後、粛宗の正妻である仁顕(イニョン)王后は張禧嬪を王宮に戻したが、すぐにそれを後悔することになる。粛宗の寵愛を受けた張禧嬪は仁顕王后にお礼も言わずにわがままに振る舞うようになった。
このときの粛宗の悩みは自分の息子がいないことだったが、1688年に張禧嬪が息子を産んだことで解消された。それが仁顕王后の立場をさらに不利にしたのである。
粛宗が張禧嬪との間に生まれた息子を後継者にしようとした。そのことに対して、「仁顕王后様はまだ21歳と若いので、まだ子供を産む可能性がございます。もう少し待つべきです」などの反対意見が飛んだ。しかし、どんなに反対意見が出ようとも、粛宗は自分の意見をまったく変えなかった。




張禧嬪との子供を後継者にした粛宗は、1689年4月21日に「仁顕王后を廃妃にする」と言った。この王命には誰もがビックリしただろう。周りの高官たちは当然のごとく大反対した。しかし、粛宗はそれをすべて無視して仁顕王后の廃妃を強行して、空席となった王妃の座に張禧嬪を就けた。
身分の低い女性が王妃になることは基本的にありえない。そういう意味では張禧嬪はまさに栄華をつかみ取ったと言ってもいいだろう。彼女が王妃となったことで、息子が世子(セジャ)になった。夫である粛宗の力を使えば当時の張禧嬪に不可能はなかったが、人生はそう甘くはなく、彼女はここからだんだんと落ちぶれていくのである。
最初は張禧嬪のことをかなり寵愛していた粛宗だが、次第にその愛は冷めていった。しかし、最高の幸せを手に入れて有頂天となっていた張禧嬪はそのことに気付かなかった。そこに現れたのが、韓国時代劇『トンイ』の主人公で知られる叔嬪・崔氏(スクビン・チェシ)で、粛宗は彼女を愛するようになった。

文=康 大地(コウ ダイチ)

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