『麗<レイ>』でイ・ジュンギが演じた光宗はどんな王様?

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光宗(クァンジョン)は、高麗王朝では初代の王建(ワン・ゴン)に次いで有名な国王だった。その光宗を、ドラマ『麗<レイ>~花萌ゆる8人の皇子たち~』でイ・ジュンギが演じた。実際の光宗の栄光と苦悩の軌跡をたどってみよう。

画像=SBS




大胆な法律で奴婢を解放

光宗は高麗王朝の4代王として949年に24歳で即位した。
その当時、王権は安定していなかった。
なんといっても、地方豪族の力が強すぎたのだ。彼らの中には高麗王朝の建国に尽力した功労者が多かったが、それゆえに政治に介入して「我こそが王朝の指導者にふさわしい」と欲を出す場合が多かった。
国王といえども、薄氷を踏む日々が続いた。
「なんとか地方豪族の力を抑えられないものか」
熟慮を重ねた光宗が956年に実施したのが「奴婢按検法」である。
これはどんな法律かというと、驚くほど大胆な改革法案だった。なにしろ、当時の身分制度で最下層に位置していた奴婢を解放しようとするものなのだ。
当時の奴婢には、もともとは平民であった人が多かった。それなのに、内乱が長かったために捕虜となった人や生活苦から借金をした人が、やむをえず奴婢にされていた。




そういう状況になってしまったのも、各地の豪族の力が強すぎたためである。彼らは奴婢をたくさん抱えて兵士として育て、それで権力を維持していたのだ。
古代から続いた過酷な身分制度。これを根本から覆すような「奴婢按検法」は、光宗の果敢な決断力によって実施された。
奴婢から解放された人は大喜びだった。しかし、大事な兵力を失うことになる豪族たちの不満は大きかった。
「豪族たちが結束して反乱を起こせば、王朝は最大の危機に陥ります」
重臣たちの反対が多かったが、光宗は「奴婢按検法」を強行した。
彼には自信があった。兵士が少なくなって弱体化していく豪族たちは決して反乱を起こせない、と。
光宗が狙った通りになった。
豪族たちの権力を抑えることに成功した光宗は、念願だった王権の強化を実現させた。まさに彼は、高麗王朝の基盤を安定させた名君であった。
さらに、光宗は次の大きな手を打った。それが全国的な官僚登用試験である「科挙」の実施だった。




この科挙の導入には前提があった。それは、中国大陸から優秀な人材を多く高麗王朝に招聘していたことである。
「高麗に行くと優遇されるらしい」
そういう噂が広まり、中国大陸から多くの人材が朝鮮半島に移ってきた。確かに光宗は噂どおりに帰化人を優遇し、政治の表舞台で活用した。その結果、中国で広まっていた科挙を高麗王朝でも始めることになったのだ。
科挙といえば、朝鮮王朝でも一番重要な人材登用試験だった。つまり、その後1000年間も続く根幹の制度を光宗は958年に始めたのである。この業績は本当に大きい。
実際に科挙は高麗王朝でも効果を発揮した。優秀な人材が官僚として登用され、王権の安定に大いに寄与した。
それはそのまま地方豪族のさらなる弱体化を意味した。
「政治改革がこれほどうまくいくとは……。これで王朝も安泰だ」
栄光をほしいままにした光宗であったが、成功体験に酔ってしまったのかもしれない。その一方で、帰化人と新進官僚の優遇策に反感を持った既存の臣下たちの不満が高まっていった。彼らの中には王朝創設期の功労者が多かった。そういう人たちを軽視したのが光宗の失敗であった。




王朝に反旗を翻す人たちが次々に現れた。絶対権力に固執した光宗は、疑いのある臣下たちを捕らえて厳しく処罰した。
「いくら監獄を新たに作っても足りないくらいだ」
そんな言葉が交わされるほど、監獄には政治的な罪人があふれた。
光宗の苦悩は深まるばかりだった。その苦悩で自分を見失い、光宗は粛清を繰り返した。こうして治世の後半は血で塗られていった。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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