歴史に生きた貞明公主「第5回・復活」

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1623年、光海君(クァンヘグン)を追放するクーデターが成功し、幽閉を解かれた仁穆(インモク)王后と貞明公主(チョンミョンコンジュ)。2人の地獄のような監禁生活は10年で終わった。このとき、貞明公主は20歳だった。

仁穆王后と貞明公主が幽閉された西宮(ソグン)は現在の徳寿宮(トクスグン)。写真は正殿の前にある中和門(チュンファムン)

仁穆王后と貞明公主が幽閉された西宮(ソグン)は現在の徳寿宮(トクスグン)。写真は正殿の前にある中和門(チュンファムン)




仁穆王后が出した条件

クーデターを主導した綾陽君(ヌンヤングン)が、光海君の次の王位に就くことは決定的だった。
彼は、14代王・宣祖(ソンジョ)の孫であり、有力な王族として王位に就く資格が十分にあった。
あとは、王族最長老の仁穆王后の許可が必要だった。
もちろん、仁穆王后としても、息子を殺した憎き光海君を追放してくれた綾陽君の王位に異存はなかった。
しかし、仁穆王后は、綾陽君の即位を認めるための条件を出した。
それは、何なのか。
仁穆王后は、はっきりと言った。
「奴を斬首せよ」
さらに、仁穆王后は鬼のような形相で言った。




「奴は同じ空の下で一緒にいられない仇(かたき)。私が直接首を斬り落としたい」
このように、光海君の斬首を強く主張した仁穆王后。娘の貞明公主も、気持ちはまったく同じだった。
綾陽君としては、仁穆王后の「光海君を斬首せよ」という命令をそのまま実行するわけにはいかなかった。
いくらクーデターで追放した王とはいえ、一度は在位していた先王を斬首すれば、綾陽君が歴史上で悪評を受けるのは間違いなかった。仁穆王后の要求を呑むことは、とうていできなかったのだ。
「私はまだ思いどおりに振る舞うことができない立場です」
綾陽君はそう言い訳したが、仁穆王后の主張は強硬だった。
「奴が勝手に母子の道理を破った。私にはかならず晴らさなければならない怨みがあり、これだけは絶対に譲れない」
このように語る仁穆王后の意思を貞明公主も全面的に支持した。
綾陽君は苦悩した。




彼はクーデターを成功させたが、光海君に政治的な失敗があったわけではない。むしろ、光海君は善政を行なっていたと言っても過言ではなかった。
そんな光海君を王宮から追放すれば、ただの反逆と受け取られかねない。それだけに、綾陽君は大義名分がほしかった。
その大義名分とは、仁穆王后に「光海君は兄弟たちを殺し、正統的な王でない」と宣言してもらうことだった。
つまり、仁穆王后のお墨付きがほしかったのだ。そのためには、仁穆王后の意向には逆らえない。
しかし、光海君を斬首にするというのは別の話だった。そんなことをすれば、クーデターこそが非道のそしりを受け、新しい王位は批判にさらされるだろう。
どうすれば、いいのか。
綾陽君は必死に仁穆王后を説得した。
仁穆王后は強硬に光海君の斬首を主張したのだが、最後まで綾陽君は受け入れる姿勢を見せなかった。




仁穆王后としては断腸の思いだったが、次第に考え方を変えていった。
「憎き奴の斬首を聞き入れられないのなら、その代わりに、娘の待遇を最高にしてもらおう」
仁穆王后は強くそう思った。
1603年生まれの貞明公主は、1623年にクーデターが成功したときに20歳になっていた。10代の間はずっと監禁状態にあったのである。
通常の王女であれば、10代前半に名家の御曹司と結婚するのが普通だった。しかし、西宮(ソグン)に幽閉されていた貞明公主は、過酷な生活を強いられ、結婚どころではなかった。
今は状況が変わった。綾陽君が新しく16代王・仁祖(インジョ)として即位して、仁穆王后は大妃(テビ)になり、庶民に降格になっていた貞明公主も王女の資格を取り戻した。
「娘に最高の生活を送らせてあげたい」
母として、仁穆王后はそのことを強く思った

(第6回に続く)

文=康 熙奉(カン ヒボン)

歴史に生きた貞明公主「第1回・誕生」

歴史に生きた貞明公主「第2回・悲劇」

歴史に生きた貞明公主「第6回・結婚」

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