歴史に生きた貞明公主「第6回・結婚」

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1623年、光海君(クァンヘグン)を王宮から追放するクーデターが成功し、主導した綾陽君(ヌンヤングン)が16代王・仁祖(インジョ)として即位した。仁穆(インモク)王后と貞明公主(チョンミョンコンジュ)も幽閉を解かれ、完全に名誉が回復された。

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婚期をのがしていた王女

20歳になっていた貞明公主。幽閉されていたために、結婚もできなかった。通常の王女は10代前半に名家の御曹司と結婚するというのに……。
婚期が遅れた貞明公主に対して、母の仁穆王后は迅速に動いた。クーデターが成功した数日後には、早くも貞明公主の婿を選抜する行事を推進した。
しかし、婿選びは難航した。
理由は貞明公主が20歳を過ぎていたからだ。
当時、そこまで未婚でいる上流階級の女性はいなかった。しかも、王女の相手にふさわしい男性は10代の半ばまでに結婚してしまっていて、候補になる男性があまりいないような状況だった。
仁穆王后が貞明公主の婿選びにあまりに熱心だったので、仁祖も全面的に協力した。その結果、選ばれたのは高官の息子であった洪柱元(ホン・ジュウォン)だった。
洪柱元は1606年の生まれだった。貞明公主が1603年の生まれなので、婿のほうが3歳下だった。




朝鮮王朝時代には、上流階級で姉さん女房が結構多かった。それだけに、貞明公主のほうが年上というのは違和感がないのだが、17歳の夫と20歳の花嫁というのは、やはり当時としては異例だった。
確かに、王女が20歳まで未婚というのは前例がないほどだったのだが、それもすべて大事な時期に幽閉されていたからだ。貞明公主の場合、その事情があまりに特殊すぎたのである。
とはいえ、彼女の結婚は、仁祖にとっても有意義なことだった。
クーデターで王位を奪っているだけに、王朝の正統性という面で仁祖にも弱みがあった。その点、14代王・宣祖(ソンジョ)の正室が産んだ王女の婚礼を執り行なうというのは、仁祖にとっても大いに大義名分が立つ慶事であった。
なお、朝鮮王朝時代には、王子であれ王女であれ結婚すれば、世子(セジャ/王の正式な後継者)を除いてすべて王宮の外に出て住むしきたりがあった。
この場合、王室は王の子供たちが王宮の外で幸せに暮らせるように、相応の屋敷と土地を用意した。




しかし、貞明公主に与えられた屋敷と土地は破格だった。
貞明公主と洪柱元が住む屋敷は、王宮の昌徳宮(チャンドックン)にとても近く、敷地も広かった。
それだけではない。
貞明公主は屋敷とは別に、地方に広大な土地も与えられたのである。
貞明公主の境遇は、光海君が王位を追放されてから劇的に変わった。
彼女は幸せな結婚をして、立派な屋敷を用意され、しかも、大地主になったのである。これもすべて、仁祖が仁穆王后のご機嫌を取るための配慮のおかげだった。
仁穆王后にしても、最愛の息子の永昌大君(ヨンチャンデグン)が8歳で光海君の一派に殺されてしまったが、その後の生き甲斐になっていた娘の貞明公主が恵まれた生活を享受できるようになって、心からホッとした。
「いつまでも、この幸せが続くように……」
仁穆王后はそう願いながら、1632年に世を去った。
享年48歳だった。




このときから、貞明公主は冷たい北風を浴びるようになった。仁穆王后がいなくなってから、仁祖の態度がガラリと変わったからだった。

(第7回に続く)

文=康 熙奉(カン ヒボン)

歴史に生きた貞明公主「第1回・誕生」

歴史に生きた貞明公主「第2回・悲劇」

歴史に生きた貞明公主「第7回・危機」

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