光海君は「明は滅亡して後金の時代になる」と予測していた。「明に肩入れするとうちの国もやられてしまう」ということで、やむを得ず援軍を出すときは最小限にして、後金に対して「事情があって明に援軍を出していますが、そちらに逆らう気はないですから」と言った。二股外交という巧みな外交を展開した結果、後金は朝鮮半島に攻めてこなかった。
個人的な怨み
外交だけではない。光海君は、大同法という庶民の減税につながる税制を都のほうからだんだんと広めていった。
彼の統治は、今から見ても優秀な政治だった。しかし、庶民の減税につながる税制は、大地主からたくさん取ることを意味していて、特権階級の反感を買ってしまう。その他にも、仁穆王后を幽閉し、永昌大君や臨海君を殺していることが非難された。
個人的な怨みを持っていたのが綾陽君(ヌンヤングン)だ。宣祖の孫で、光海君の甥である。
この綾陽君の弟が光海君によって殺害されている。その理由は、あまりにも頭が良すぎて、「こいつが生きていたらやばい」と警戒されたからだ。
綾陽君には個人的な怨みが強かった。
1623年、綾陽君は光海君に怨みを持っている人、大同法による減税政策で不利益を被った特権階級の人たちを集めて王宮を襲った。このクーデターは成功し、光海君は逃げてしまった。
綾陽君は個人的な怨みでクーデターを起こしたために大義名分がない。これではただの反乱なので、やはり「どうしても、光海君を追放せざるを得なかった」という大義名分がほしかった。それをくれるのが仁穆王后である。
仁穆王后は、徳寿宮に幽閉されている間、食糧なども満足に与えられずにかなり生活が苦しかった。
クーデターを成功させた綾陽君は、徳寿宮にいる仁穆王后の前で正座して、「この度、憎き光海君を追放しました。王妃様におかれましては、全国に号令を出してくださいませんか」と言った。
しかし、仁穆王后はすんなりと応じなかった。
「いまさら、何を言っておるのだ。この10年間誰も見舞いに来なかった。何じゃ今ごろになって……」
すごい怒りようだった。その怒りがなかなか解けなかった
(第4回に続く)。
文=康 熙奉(カン ヒボン)