粛宗(スクチョン)の側室となった張禧嬪(チャン・ヒビン)は、1688年に粛宗の長男を産んだ。その直後に、粛宗が激怒する事件が起こっている。それは、どんな出来事だったのだろうか。
激怒した粛宗
事件が起きたのは、1688年10月だった。張禧嬪が粛宗の長男を産んだ直後のことである。
張禧嬪の実母が娘の産後の世話をするために、屋根つきの輿(こし)に乗って王宮の中に入ろうとすると、司憲府(サホンブ/官僚の不正を糾弾して風紀を守る役所)の高官たちが、配下の者たちに命じて、張禧嬪の実母を輿から引きずり降ろし、輿をむざんに焼き捨ててしまったのである。
このことを知った粛宗は激怒した。
「王子の祖母に対して、なんということをするのか」
粛宗が憤慨するのも当然だった。
張禧嬪の実母は平民として宮中に入ろうとしたのではなく、粛宗の側室の母親として屋根つきの輿に乗っていたのである。
粛宗は司憲府をやり玉にあげた。
「貴人の母親が宮中に入ろうとしたときに、司憲府がこのように侮辱したという話は聞いたことがない。司憲府はなぜこんなことをしたのか」
粛宗はさらに憤慨して言った。
「輿に乗って宮中に入ることは余が許可したものであり、もともと慣例にもあることなのだ。王子の祖母が、王の許可を経て宮中に入ろうとしたのに、これほどの侮辱を受けるとはとんでもないことだ」
粛宗は、王権に対する司憲府の挑戦だと考えた。
同時に、粛宗はこの事件を、生まれた王子に対する西人派(当時の主流派閥)の脅迫だと受け取った。なぜなら、張禧嬪の実母をとがめたのは、西人派の高官たちばかりだったからだ。
西人派が、張禧嬪の母親を侮辱した理由ははっきりしている。西人派は、対抗勢力だった南人派(張禧嬪を支持していた派閥)が強くなることを恐れ、あまりに過剰に反応しすぎてしまったのだ。
王子と言っても側室が産んだのだが、他に王子がいない状況においては、西人派は張禧嬪の出産を自分たちの生死に関わる重要事件と捉えた。どんなことをしてでも、この王子が即位するのを防がなければならなかったのだ。
しかし、粛宗の逆鱗(げきりん)に触れてしまった。西人派はあせっていたのだが、張禧嬪の出産を機に没落の道をたどった。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
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